サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(三島由紀夫と「享楽」)

セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)を繙読していたら、次のような記述に逢着した。

 しかるに、快楽は喜悦の絶頂に達した瞬間に消滅するものであり、それほど広い場所をとらず、それゆえ、すぐに満たし、すぐに倦怠を覚えさせ、はじめの勢いが過ぎれば、すぐに萎えしぼんでしまうものなのである。およそその本性が生々流転しょうじょうるてんの動きにあるものは、確固としたものであることは決してない。したがって、また、みずからの作用を発現しているまさにその瞬間に滅ぶべく、たちまち来りては、たちまち過ぎ行くものには何らの実体もありえない、ということになる。そのようなものは、みずからが終焉を迎える目的地に向かってひたすら突き進み、生成の始まりと同時に存在の終わりに臨むものだからである。(『生の短さについて』岩波文庫 p.147)

 エピクロスの思想を批判する文脈で語られたこれらの言葉から、私は咄嗟に三島由紀夫の小説を連想した。彼の思想の根本に「夭折」への憧憬と欲望が横たわっていることは広く知られた事実である。実際、彼の作品には度々、若さと美しさの絶頂において死を遂げる存在への崇敬が織り込まれている。翻って彼の「老醜」に対する敵意と絶望の劇しさは、彼の思想が根本的に「享楽」の要素を豊富に含んでいる為ではないかと思われる。

 彼の作品を支配する主要な観念である「美」の具体的な内実に就いて、これまで私は行き届かぬ理解を持て余してきた。仮に「美」を端的に「快楽」と読み替えたとき、彼の作品を覆う奇態で性急な衝動の意味が、幾らか鮮明になるのではないかという予感に今、囚われている。尤も、これは論拠の薄弱な主観的暴論の萌芽に過ぎない。

 「享楽」という感覚的現象の構造が、セネカの侮蔑的な言及にある通り、絶頂と衰退の目紛しい変転という性質を有していることは経験的な事実である。三島の生得的な願望は、そうした享楽の絶頂において、その絶対的な高みにおいて永遠と化すことを希求している。無論、現実の世界で享楽が永久的な持続を実現することは難しい。そこには根源的な逆説がある。如何なる享楽も、それが永久的に持続するならば、その強度は不可避的に失われるという論理である。持続する絶頂は、絶頂たる資格を自ずと喪失する。享楽における絶頂は常に瞬間的な現象であることを原理的に強いられている。

 それでも無理を承知で、享楽の絶巓を永遠に持続したいと願うならば、次善の策として考えられるのが「絶頂における死」を遂げることである。絶頂の渦中で命を絶てば、死者は実質的に永遠に持続する享楽の裡に葬送されることとなるからだ。例えば「憂国」のように、性的な欲望と死への欲望とが相互に緊密な結合を示す背景には、こうした「享楽」の論理が重要な役割を担っているのではないか。享楽の恍惚を極限まで追求すれば、その永久的な持続を望むのは必然的な帰結である。エロス(eros)とタナトス(thanatos)の奇怪な融合は、享楽の極北における不可避の現象なのである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

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花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

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