サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 3

 引き続き、セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)に就いて書く。

 「忙殺」という無惨な悪徳が、自己の「生」の他者による簒奪或いは侵襲によって生じるのだとすれば、我々がそうした悪徳の齎す虚無の症候を免かれる為には、当然のことながら、この貴重な一回限りの「生」の時間を他者の支配から奪還するという格闘が要請される。

 他者の支配から解き放たれた実存的な時間のことを、セネカは「閑暇の生」という言葉で表現する。そして「閑暇の生」の対義語として侮蔑的な含意を伴って用いられるのが「不精な多忙」という言葉である。

 あらゆる「忙殺」の原因は他律的な性質を孕んでいると考えるべきである。自分から好んで選んだ行為であったとしても、往々にしてそれらの行為は何らかの抗い難い外在的な衝動や要求に基づいて我々の身辺を包囲し、強制的な命令を発している。我々の日常的な忙しさの過半は、他律的な要因にその根拠を有し、表層的な「忙殺」の現象は我々自身の内在的な要求から離反している。そうした奇態で不毛な乖離は、我々自身が主体的な価値形成の過程を見限っていることの反映であり効果である。

 すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。事実、そのような人が立派に見守るのは自分の生涯だけではない。彼はまた、あらゆる時代を自分の生涯に付け加えもする。彼が生を享ける以前に過ぎ去った過去の年は、すべて彼の生の付加物となる。われわれがこの上ない忘恩の徒でないかぎり、神聖な思想のさまざまな学派の令名赫々とした創始者たちは、われわれのために生まれ、われわれのために生を用意してくれたと考えねばならない。われわれは、他者の彫心鏤骨によって闇から光へと掘り起こされた、美しいこときわまりない知の世界へと導かれる。われわれに閉ざされ、禁じられた世紀はなく、われわれはどの世紀にも入って行くことが許されており、精神の偉大さを支えに、人間的な脆弱さから来る狭隘な限界を脱却したいと思えば、(その知の世界を)逍遥する時間はたっぷりとある。(『生の短さについて』岩波文庫 P48)

 この場合の「英知」という言葉が、セネカ自身によって批判されている、些末な知識の蒐集を意味するものでないことは明瞭である。何の役にも立たない雑駁な知識を溜め込むことは、無闇に厖大な資産を誇ったり、己の社会的な地位や栄誉を自慢したりすることと同質の悪徳であり、従ってそれは「不精な多忙」の範疇に属する事柄なのである。テレビの画面に氾濫する夥しいクイズ番組の奇妙な隆盛を徴すれば明らかなように、知識の多寡を競い合うことは、セネカの論じる「英知」の問題とは全く無縁である。知識の多さを誇示することは、財産の豊かさを誇示することと同じ下劣な風格を備えた行為なのだ。財産よりも知識の方が相対的に優等であるという偏見は、合理的な論拠を毫も有していない。

 「英知」という言葉が最も緊密な結合を示している美徳の名は「静謐」である。だが、これだけでは何故「静謐」という曖昧な形容詞が「美徳」の称号に相応しいのかを説明したことにはならないだろう。「静謐」の含意は、主体的な「自制」である。自己を律し、他者による支配を免かれ、只管に世界の「真実」を見究めようとすること、換言すれば「生きること」の実相を洞察すべく時間を費やすこと、それが「閑暇の生」を構成する中核的な働きなのである。

 人間は快楽に耽溺し、豊饒な資産を求め、権力に憧れ、欠如を埋める為に情熱を燃やす。そうした「煩悩」の塊である己の立場を無理に否認しても仕方ない。そうした欺瞞は美辞麗句で飾り立てられた空虚な「大義」を生み出しかねないからである。例えば禅宗の教義は、僧侶が悟達の境地に留まり続けることを批難する。中国臨済宗の僧侶が考案した、悟達の段階を示す「十牛図」の最終段階は「入鄽垂手」と称し、俗世に戻って衆生の救済に当たることが至高の美徳であることを語っている。つまり、俗世を離れて隠遁し、清廉な生活に逼塞するだけでは、人間的な美徳の絶巓に達することは出来ないのである。

 そうであるならば、俗塵に塗れ、社会的な体制の中に歯車の如く組み込まれても猶、主体的な自律の精神を維持することが最も望ましい人間的境地であるということになる。如何なる環境に置かれても「閑暇」を保つこと、それが「静謐」という徳目の要諦である。「静謐」の徳目が遵奉されているとき、たとえ社会的な雑務の渦中に呑まれていても、人間は「自己」の本来的な時間を忘却しない。言い換えれば「自分という人間の姿形や在処」を見失うことがない。他者に一切を併呑され、自己の本来的な信条や欲望を喪失する危機を常に免かれることが出来る。単純に俗世から物理的な距離を確保し、他人との交わりを断ち切って「静謐」を得るというのは、修養の劈頭においては容認されるが、その境涯に留まっている限り、更なる飛躍や成長は望めない。

 「心の平静について」と題された一篇の著作は、正にこうした「静謐」の美徳に就いて論じたものである。そこでは、如何なる要因が個人の内的な「静謐」を妨害するのか、詳細で具体的な考究が綿々と展開されている。そしてセネカの示す精密な「カルテ」(karte)は、我々の「心の平静」を擾乱する最も根本的な要因を「自己に対する不満」(P77)に求めている。言い換えれば、それは精神的な「飢渇」である。自分自身が置かれている現状への不満、叶えられぬ憧れや祈り、他者との相対的な較差、こうした要素が複雑に混淆して、抑え難い執着と種々の劇しい欲望を分泌するのである。

 私自身、未だ生涯の途上にあり、三十三歳の誕生日を迎えても猶、未熟な青二才の悪徳が一向に払拭されない体たらくを病んでいる。そういう人間の考え付いた事柄に普遍的な説得力など望みようもないのだろうが、自分自身の日々の経験や過去の記憶を踏まえて考え合わせてみると、人間の「幸福」というものは、多くの宗教や哲学が語るように、やはり「欲望の停止」を基礎として培われるのではないか、という風に感じている。

 幸福とは凪のように穏やかな状態を指し、現状に満ち足りて、外部に何かを求める必要に迫られず、分不相応な欲望や野心の虜とならない精神的状況を表現する観念である。欲望は「不足」や「欠如」の感覚から出発し、それが充足された瞬間に強烈な歓喜を惹起する。この「歓喜」には麻薬的な中毒性が備わっていて、しかも「歓喜」は一過性の現象であり、常に足早に我々の許を立ち去っていく不安定で流動的な性質を宿している。我々は強烈な「歓喜」の記憶に魅了され、幾度もそれを反復しようと試みる。こうした反復は、原理的に「終止符」というものを欠いている。寧ろ我々は「歓喜」を感じる為に敢えて「欠落」を求めるという奇態な逆説の裡に閉じ込められているのである。平穏な生活に「倦怠」を覚える心理的背景には、いわば「欲望への憧憬」或いは「情熱への憧憬」という貪婪な現象が関与しているのである。

 記憶の中に揺れる「歓喜」の幻影に煽られて、人は自らの意志で平穏な生活に亀裂を走らせる。騒擾と混乱の渦中に身を投げ、劇しい飢渇と奇蹟的な充足の目紛しい交替に耽溺しようと企てる。それが所謂「享楽」の原理である。「享楽」の原理と「幸福」の原理との間には著しい対照性が広がっている。「享楽」は「欠如」によって駆動され、それゆえに自らも「欠如」を要求するという循環的な性質を持っている。「欠如」と「充足」の無際限な輪廻が「享楽」の絶対的な歓喜を実現する為の基礎的な条件なのである。一方の「幸福」は、そのような「欠如」が幻影に過ぎないことを知悉しない限り、成立しない。劇しい「歓喜」が必ず深刻な「絶望」と闇の中で手を結んでいることを精確に学び、そのような秘密の結託に対して「峻拒」を以て臨むこと、それだけが揺るぎない「幸福」へ到達する為の要諦なのだ。言い換えれば「幸福」とは「欲望」という流動的な機構への果敢な抵抗の異称なのである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)