サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 2

 引き続き、セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)に就いて書く。

 多くの人間が、生物学的な宿命たる「死」の到来の厳然たる絶対性に眼を塞いで生きている。日々、忙しさに追い立てられて暮らしていると、自分の「死」という約束された暗鬱な未来に想いを馳せることは難しい。幼い頃、私は蒲団の中で死後の世界を想像し、自分が死んで如何なるアクセスも出来なくなった宇宙が、それでも涼しい顔で未来永劫続いていくのだという認識に怯えて涙を流した経験がある。その瞬間、私は小さな哲学者であったのかも知れない。しかし長じるに連れて、そうした真摯な空想は私の遽しく俗塵に塗れた生活を見限ったように遠ざかり、その姿は虹のように薄れてしまった。

 セネカは、死の恐怖に襲われ、生命の短さを嘆く人々に対して、痛烈な批判者としての立場を崩さない。彼らの悲嘆が聊かも現実的なものでも正当なものでもないことを入念に縷説する。人間に授けられた生物学的な時間が短い訳ではなく、人間の「浪費」という悪習が、本来ならば充分に豊饒な時間を虚しく減殺しているのが実情なのだと、彼は断定する。つまり、人生の短さに対する慨嘆は不当な要求に基づいていると、彼は看做しているのである。

 そうした不合理な慨嘆の背景に、実存的時間の有限性に対する無理解が介在していることは明白な事実である。或いは、このように言えるかも知れない。生の短さを大袈裟に、悲劇的な表情で嘆きながらも、同時に多くの人々は、夥しい時間を持て余して、その理想的な使途に就いて定見を持っていないのだと。こうした考え方は、我々の度し難い性向、或いは深刻な宿痾である「倦怠」の感情の日常的な瀰漫によって、明確に立証されていると言うべきである。我々は生の短さを本当の意味では嘆いていない。仮に嘆くとしても、その時期は我々が老年に差し掛かり、漸く具体的な現実味を帯び始めた「死」の運命に総身を掴まれた後の話である。「死」が遠方に、蜃気楼のように儚く微かに揺めいている段階においては、我々は寧ろ「生」の途方もない厖大な質量に倦怠を覚えている。我々の実存的時間に関する浪費と蕩尽の劇しさは、そうした倦怠の齎す認識的錯誤の所産なのである。

 我々は永遠に持続するように思われる「生」の厖大な質量に堪え難い苦しみを見出し、それを無惨に使い果たしてしまおうと、焦躁に駆られて様々な暗愚な行為に走る。そうやって人生の「余白」を無理にでも埋め尽くし、空虚な倦怠を押し殺そうと乏しい智慧を働かせる。それが大いなる誤解と軽率な謬見に根差した考えであることに、我々が自力で明晰な自覚を得ることは一般に困難である。差し迫った滅亡の危殆だけが、我々に「死」の実感を与えると共に、有限の「生」に対する覚醒を齎す。

 所謂「ニヒリズム」(nihilism)は、実存的時間の厖大な質量に対する倦怠から生じる感覚ではないかと私は思う。それは「どうせ死んでしまうのだから、如何なる努力も労苦も無益である」という虚無的な命題とは異質なものではないか。「無意味な生」が果てしなく持続するように感じられること、それがニヒリズムの根源的な濫觴である。「終焉を欠いた生存」という誤った幻想がニヒリズムを齎すのだとすれば、必然的にニヒリズムとは一つの病理ということになる。

 生存は必ず終焉を迎える。しかも、その終焉は絶えず私たちの生活の一隅に、萌芽として隣接し続けている。だが、我々の鈍感な意識は、微かな「死」の萌芽を真剣に捉える労力を払おうとせず、寧ろ果てしなく持続する生存に困憊し、場合によっては一刻も早い終焉を希求するような始末である。死の運命に対する悲嘆も憧憬も共に「永久的な生存」という奇態な謬見に基づいて生まれている。

 実存的時間を持て余すこと、それを焦躁に駆られた浪費の悪徳によって貪婪に食い潰すこと、そうした人間の病弊を指して、セネカは「忙殺」という言葉を用いている。それは有り余る退屈な時間を、様々な事柄に振り分けて、内在的な虚無の荒廃を埋め合わせようと試みる人間の生き方である。その根底には、人生に「意味」や「価値」を見出すことに困難を感じるニヒリズムの病理が隅々まで蔓延している。先程の記述を訂正しておこう。「終焉を欠いた生存」という謬見がニヒリズムを齎すのではない。人生に「意味」や「価値」を見出すことに困難を感じるというニヒリズムの中核的な症状が、有限な「生」を無限の「倦怠」へ書き換えてしまうのである。

 生存の目的に遭遇し得ず、自覚し得ないというニヒリズムの病弊は、如何なる原因に基づくのだろうか? 如何なる行為にも関心を持てず、積極的な主体性を確立し得ないこと、世界に対して根源的な受動性を以て報いること、そうしたニヒリストの頗る受け身で冷笑的な振舞いは、如何なる経緯に基づいて構築されるのか。「地上の出来事には如何なる意味もない」と嘯いて、どんな社会的な価値にも倫理的な基準にも拘束されることを拒む生粋のニヒリストは、如何なる破滅にも、価値の崩落にも怯えないことを自らの矜持とするのみならず、積極的に世界の破滅に荷担しようとする。時には自殺が、時には血腥い大規模な蛮行が、彼らニヒリストを識別する為の華やかな宝冠の役目を負う。彼らは「無価値な生」という一つの索漠たる理念の信奉者であり、彼らの眼には、この束の間の人生は余りに厖大で無益な「余剰」の如く映じている。従って彼らの持ち得る根源的な欲望は、その無益な「余剰」の総体を破壊へ導くことに自ずと限られる。

 ニヒリズムは濃淡の差異を伴いながら、万人の肉体に密かに寄生している精神的な疾病の一種であるから、完全に純化された極端なニヒリストという存在へ遭遇する機会は滅多に出現しない。大掛かりで潰滅的な犯罪や陰湿な暴動を繰り広げずとも、例えば先述した「浪費」の概念に該当するのならば、如何なる些末な「不善」も「愚行」も、ニヒリズムの症候の類型として解釈することが出来る。酒精の魅惑に溺れるのも、官能的な悦楽を次々と貪るのも、同じようにニヒリズムに由来する退嬰的な症例なのである。無論、酒精や漁色に対する情熱が、単なるニヒリズムの症例に留まるのではなく、寧ろ当人の「ライフワーク」(lifework)に等しい重要な価値を帯びている事例も想定出来ない訳ではない(恐らくセネカは、浴びるような飲酒や果てることを知らない性交を決して肯定的に承認しようとは考えないだろうが)。

 少なくともセネカにとって、ニヒリズムからの脱却を求めて半ば本能的に「忙殺」を望んでしまう人々の精神が、痛烈な批判的言及の対象であったことは疑いを容れない。しかもセネカの手で「忙殺」の範疇に組み入れられる営為の種類は多岐に亘っている。飲酒や性交のみならず、社会的な「公務」に忙殺されることも、彼の眼には無益な「悪徳」として映じているのである。

 要するに、君が知りたいのは、何かに忙殺される人間の生きる生がどれほど短いか、ということであろう。人々がどれほど長寿を切望するか、見てみるとよい。老いさらばえた老人がわずか数年の延命さえ願かけをして乞い求める。自分は歳よりも若いと偽り、虚妄の年齢で自己満足し、同時に運命をも欺いているかのような喜びようで自己欺瞞を続けるのである。しかし、やがて何かの病患や衰弱で自分が死すべき人間であることを思い知らされたとき、まるで、この世から出て行くのではなく、生からむりやり引き離されでもするかのように、どれほど怯えながら末期を迎えることであろう。彼らは何度も何度もこう叫ぶ、「自分は本当に生きることをしなかった愚かな人間だった。この病状から逃れられたら、閑居してのんびり暮らそう」と。そのとき初めて彼らは、実際には享受できなかったもののために自分がどれほど無益な準備をしてきたか、すべての労苦がいかに無駄なものであったかを悟るのである。これに反し、あらゆる世間的な営みから遠く離れて生きる人の生が豊満でないなどということがありえようか。その生は一片たりとも他人に譲渡されることはなく、一片たりともあちこちにばらまかれることもなく、一片たりとも運命に委ねられることもなく、一片たりとも怠慢によって失われることもなく、一片たりとも椀飯ぶるまいで減ることもなく、一片たりとも余分なものもないのである。その生の全体が、いわば見返りを生む。したがって、どれほど短かかろうとも、十分すぎるほど十分なのであり、それゆえにこそ、最期の日を迎えると、賢者らしく、しっかりした足取りで、ためらうことなく死出の旅路につくのである。(『生の短さについて』岩波文庫 pp.37-38)

 セネカの倫理的思想を構成する明瞭な基準に一つとして挙げられるべきは「自律」であろう。彼の遵奉する所謂「ストイシズム」(stoicism)は、その徳目として「自己制御」という項目を必ず含んでいる。言い換えれば「ニヒリズム」(nihilism)は、このような「自己制御」の破綻或いは不備によって分泌される精神的症候なのである。「忙殺」とは即ち「他者による自己の侵略」の要約された表現であり、そうした侵襲的な関係性が主体の裡に虚無的な倦怠を醸成するのだ。セネカが「忙殺」を峻拒することの効用を説くのは、それがニヒリズムからの恢復への着実な捷径を齎すからである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)