サラダ坊主日記

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機智と空想 三島由紀夫「永すぎた春」

 三島由紀夫の『永すぎた春』(新潮文庫)を読了したので、感想を書き留めておく。

 「金閣寺」や「禁色」の限界まで彫琢された硬質な文体の恐るべき威力に慣れた眼から眺めると、この「永すぎた春」という作品の文体は随分と砕けて弛緩しているように見える。無論、この場合の「弛緩」という言葉は、作者の意図的な選択と戦略の賜物であって、技術的な拙劣を意味するものではない。作者は敢えて弛緩した、彫琢の行き届かない文章(厳密には、彫琢を行き届かせぬように配慮した文章)を駆使することで、この作品が過剰な文学性の外観を纏わぬように手加減したのであろうと思われる。

 「純文学」と「大衆文学」という古臭い区分が現代においても有効性を保っているのかどうかは知らない。ただ、芸術性と娯楽性との間に何らかの線引きを試みることは、文学に関する評価や思索を進める上では、少なくとも補助線程度の役には立つのではないかと思う。端的に言って、芸術性とは、社会における通俗的な観念を破砕し、日頃は抑圧されている非合法な思考と情熱の世界に、尖鋭的な表現を与えるものである。一方の娯楽性は、既に公共的な合意を得ている社会的な観念の枠内で、いわば「公序良俗」を尊重するような仕方で、時代の観念に適合し、それに奉仕することである。公然と認められた価値観、公然と認められた快楽に奉仕すること、いわば「安全な快楽」を提供することが、娯楽的な文学の背負っている主要な目的である。それは芸術性が自らの目的と使命を果たす過程で、頻々と社会的な通念や公共的な合意を蹂躙してしまうのとは全く対蹠的な性質であると言えるだろう。

 こうした便宜的区分に従って論じれば、この「永すぎた春」は明らかに娯楽的な文学の範疇に属しているように見える。同時期に並行して執筆された「金閣寺」の禍々しい反社会性と比較すると、作者は自らの精神的な平衡を維持する為に敢えて「永すぎた春」という作品を構想したのではないかと思われる。「永すぎた春」には三島一流の、底意地の悪い穿った心理的描写が、服用し易いように適度に稀釈されて鏤めてあるが、それを反社会的な観念と呼ぶことは如何にも大仰な虚飾である。長い婚約期間における男女間の様々な波乱を描くという発想には、幾らでも三島の美学と哲学に基づいた犀利で狡猾な省察を刻み込むことが可能であるように思われるが、実際には、作者は「永すぎた春」の随所に時代の一般的な通念に対する甘い配慮を忍ばせている。「金閣寺」で凄まじいほどの反社会的な悪意と敵愾心を撒き散らした反動のように、或いはその埋め合わせのように、作者は時代の通念に対して素朴な礼儀を堅持している。様々な波乱が起こっても、それらは総て、最終的な「幸福」への伏線でしかない。つまり、波乱は生じても一向に「破局」が生じない。国宝の金閣寺に火を放つような「破局」の危険性は注意深く排除されている。その結果として、物語や登場人物に対する解剖学的な眼差しも、慎み深い紳士のように、無害な領域ばかりを見凝めて、本当の深淵を覗き込もうとしていない。この作品が当時、十五万部を売り捌くベストセラーとなったという歴史的事実は恐らく、そうした禁欲的な姿勢の産物であろう。通俗的な理念に精緻な技巧で奉仕する三島の皮肉な文業に、社会の側が歓んで拍手喝采を送ったのである。

 或る意味では、この作品は「潮騒」と同様に、一つの通俗的な童話であり、喜劇的な機智に縁取られた清々しい空想の物語である。恐らく作者は少しも斯様な「幸福」の形態を信じていないのではないかと思われる。少なくとも「金閣寺」や「禁色」を書いた三島由紀夫という人物にとって、「潮騒」や「永すぎた春」に充ちている典雅な「幸福」の形象は、皮肉で逆説的な憧憬の対象に留まっているのではないか。「仮面の告白」を書いた作者が「永すぎた春」の通俗的異性愛の範型を、心の底から信頼することなど有り得ないと私は思う。その意味で、これは確かに作者の「余技」であり「娯楽」であり、単に黙って読んで愉しめばいいだけの作品である。往時の風俗を偲ばせる様々な描写を好奇の眼差しで拾い集めて愛でるのに適した小品である。或いは作者は、己の社会的な成熟に自信を持ったのかも知れない。「仮面の告白」において明瞭に示されている「正しい欲望への欲望」或いは「道徳的な欲望への憧憬」を、落ち着いた心境で統御し得る段階に到達したことの反映なのかも知れない。何れにせよ、余り小難しい理窟を弄してページを捲るべき作品ではない。

永すぎた春 (新潮文庫)

永すぎた春 (新潮文庫)