サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

相手から依存されることに喜びを見出すのは、自分が相手に依存していることの証拠である。

 依存するというのは、弱者が強者に縋りつくような関係性のことを指していると思われがちだが、少なくとも依存的な関係が長期化する場合には、依存される側にも何らかの利益が発生していると看做すのが自然な推論である。依存される側に立っている強者が、相手から突き付けられる種々の理不尽な要求にも拘らず、保護者的な振舞いを熱心に行なっているとき、その光景を恰かも「無償の愛情」の崇高な実例であるかのように捉えてしまうことがある。だが、それが本当に如何なる報いも求めず受け取らない「無償の愛情」であると認定し得る事例は決して多くない。大抵の場合、その相対的な強者は特定の依存的な人物との間に共犯的な関係性を築いており、そこから何らかの心理的実益を吸い上げている。物質的な利益を何も得ていないように見えるからと言って、その保護者的人物が崇高で剣呑な自己犠牲にばかり身を挺していると判断するのは短慮である。世の中には、依存されることによって自分の存在を肯定し、承認し、信頼することが出来る種類の人間がいるのだ。

 それは一見すると健全な在り方のように見える。つまり、弱者に手を差し伸べて庇護することに歓びを見出すという人格的な特性は、多くの公共的な実益を齎す好ましい美質であるように見え易い。だが、物事の表層だけを捉えて、その真価を判定する性急な態度は慎むべきであろう。

 本当の意味で「与えること」そのものに歓喜を見出す人物ならば、あらゆる社会的称讃に値すると言えるだろう。だが、他人から「依存されること」に歓喜を見出すという人格的特性は、厳密に検討すれば、或る危険な徴候の所有者であると看做し得る。彼らは他人に与えることを通じて、自己の存在に対する信頼の源泉を確保している。換言すれば、彼らは誰からも依存されなくなったとき、自己に対する信頼の根拠を喪失してしまう。特定の人間関係に深く執着することで自己の実存を支えているという意味では、保護者も依存者も、根本的な次元において同類である。両者は、同じコインの裏表程度の違いしか持っていない。相手に依存し、絶えざる庇護を求める弱者だけが、その関係性における倫理的な「頽廃」の責任を問われるのではない。依存者を庇護することに己の実存の基盤を求め、相手から依存されることで己の価値を確かめようとする相対的強者の側にも、同等の責任が問われるべきなのである。

 こうした客観的事実を、相互的な依存関係の当事者たちが、その渦中に身を置いたままの状態で、正しく理解することは難しい。そこには数多の錯雑した謬見と誤解が折り重なっていて、厳粛な真実への眼差しを遮蔽している。保護者は、依存的な伴侶(この場合の「伴侶」という言葉は広義に解されねばならない)への献身的な奉仕を、相手に対する崇高で誠実な愛情の発露であると容易く信じ込んでしまう。この謬見は、傍目には美しい愛情の発露として映じる可能性が高いので、なかなか覆されることがない。或いは、沈着な第三者から、その献身的な奉仕の病的な過剰さを指摘されたとしても、当事者は尤もらしい理窟を弄して、相手に対する過度の献身を「崇高な愛情」であると強調することが出来る。その内面的で観念的な虚飾は、沈着な第三者にとっては直接的な利害の生じる対象ではないので、献身と庇護の病的な過剰さに対する批判的な言及は往々にして、控えめな指摘のままに留まり、決定的な効果を発揮することは稀である。

 こうした困難は、愛情という理念を過度に「内面的なもの」として定義する近代的な通念の齎した宿痾であると言えるだろう。愛情の有無、その性質を、外面的な言動を材料として判定するのではなく、飽く迄も当事者の内面的な問題として測定する態度は、愛情に関する心理的構造の不可視化を促進する。「眼に見えないもの」を重んじる神秘主義的な態度が、近代的な愛情の観念と結び付くとき、共依存の内包している頽廃的な性質は、熾烈な情熱という美名の下に隠匿されてしまう。相互扶助の重要性は言うまでもないことであり、それが人間の形作る社会の根本的な原理であることも明白な事実である。だが、力の及ぶ限り、自主独立の精神を貫徹するという大原則がなければ、相互扶助の美徳は直ちに失墜して、単なる頽廃的な共依存の深淵へ嵌まり込んでしまう。共同体の原理が、単なる馴れ合いの体系に過ぎないのであれば、そこには如何なる革新的な未来も、建設的な成長も到来することがない。

 自主独立の精神を欠いた相互扶助は、責任という意識を欠いた依存的な人間の集合に過ぎない。あらゆる不平不満の解消を他人に求め、決して自らの力で責任を全うしようと志すことのない倫理的な頽廃が猖獗を極めれば、共同体の醜悪な瓦解は時間の問題となる。相互扶助は、銘々が己に課せられた責任を当事者として引き受けることを原則としており、それは怠惰な依存や、過剰な自己犠牲とは異質な次元に属する、崇高な社会的理念である。