サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「訓誡」に化身した宗教的愛慾 三島由紀夫「侍童」

 三島由紀夫の短篇小説「侍童」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 年長者が教育や訓誡を建前として年少者を寵愛する風習は、例えば古代ギリシアにおける「少年愛」(paiderastia)などの豊富な歴史的事例を備えている。この「侍童」における伊佐子と久の迂遠な関係は、ソクラテスが愉しんだパイデラスティアとは違って異性愛の範型に則っているが、愛情が訓誡の仮面を被って顕れている点では同様である。若く美しい未亡人である伊佐子は、凡百の嫉妬を宗教的な罪悪の観念と結び付け、久に対する通俗的な肉慾を崇高な教育者の情熱と巧みに掏り替えている。恐らく「結婚」という社会的制度は「敬虔な基督教徒」である伊佐子にとって特別な重みと倫理的な聖性を兼ね備えた営為であり、従って夭逝した亡夫への貞節は、クリスチャンとしての信仰に関連する道徳的な格率と分かち難い。離婚や姦通を断固として容認せず、婚姻という秘蹟を神意の賜物として崇めるカトリックの教義を信奉する限り(尤も、死別の場合の再婚は赦される)、久への素朴で官能的な恋慕が峻厳な抑圧の裡に閉じ込められるのは自然な成り行きである。

 抑圧された感情は、宗教的な解釈に基づいて翻訳され、単純な恋慕の情熱は、道徳的な博愛の観念と等号で結ばれる。伊佐子は娼婦を買った久の罪悪を浄める為に神へ祈りを捧げ、彼を穢れた過ちから救済する為に熱心な訓誡を垂れる。彼女はそれを自らの宗教的な誠意として、信仰に対する情熱の所産として定義するだろう。しかし、それは精妙な欺瞞に過ぎないのではないか。抑圧された感情は決して消滅せず、相反するものの扮装に隠れて密かに当初の目的を遂げようとする。彼女の訓誡は、痛切な愛情の告白と同義なのである。

 教育や訓誡への意志が、官能的な性愛に対する欲望と極めて容易に癒合し得るものであることは、広く知られた経験的真理である。そして伊佐子の訓誡は明らかに、娼婦との享楽的な姦淫に溺れる久を「正しい愛」へ導こうとする崇高な意図を誇示している。その神聖な理想主義が、素朴な恋情に賦与された精緻な仮面であることは疑いを容れない。有り触れた平凡な嫉妬、少年の美しい容色への好意を、彼女の内なる道徳律に適合させる為の煩瑣な手続きが、そのような訓誡の擬制を要求するのである。そうしなければ、彼女の久に対する慕情は、久が娼婦に対して懐く享楽的な執着と同一の次元に属することとなり、彼女の苦悩は見苦しい嫉妬の焔に過ぎなくなる。尚且つ、久への官能的な執着は不可避的に、亡夫への貞節を裏切る浅ましい衝動的欲望を意味することとなる。こうした身も蓋もない散文的な現実の直視は、伊佐子の「敬虔な基督教徒」としての実存的な自意識を無惨に破綻させてしまいかねない。倫理的な観念と密接に結び付いた彼女の矜持は著しく毀損され、美しく彩色された過去の生活は悉く踏み躙られてしまうだろう。

 これを「偽善」と呼ぶのは不当な措置だろうか。「正しい愛」へ導く年長者の敬虔な情熱は、脆弱な年少者の依存的な魂の形式を必要とする。伊佐子の純潔な至誠は暗黙裡に、穢れた罪深い魂、美しい肉体に覆われて享楽の囁きに抗し難く惹き寄せられていく貧弱な魂の存在を要求している。弱者への愛が美しく輝く為には、訓誡を試みる年長者の器量を超越しない弱者の存在が不可欠の前提となる。それならば、結局「正しい愛」への崇高な志は、罪悪を免かれ得ない本質的な弱者の恒常的な出現を暗に望むのではないか。言い換えれば、伊佐子の敬虔な愛情は倫理的な弱者に依存し、罪人の存在と相補的な仕方で成立するものであるということになり、彼らの関係は所謂「共依存」(co-dependency)の症例に該当するのではないだろうか。「正しい愛」から得られる潔癖な道徳的充足は、寧ろ不断に倫理的弱者が産出されることを期待し、それゆえに基督教は「原罪」という画期的な神話を発明したのではないか。弱者の絶えざる供給が得られなければ、救済を通じて相対的な権威を確保する宗教的活動は維持し難い。けれども、自己の道徳的充足の為に絶えず弱者の出現を望むという心性は、極めて欺瞞的で暴力的な原理に根差しているように思われる。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫