サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

退屈な幸福と、ロマネスクな不幸 三島由紀夫「鴛鴦」

 三島由紀夫の短篇小説「鴛鴦」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 一般に「鴛鴦」とは仲の睦まじい夫婦や恋人の比喩に用いられる言葉である。その比喩に相応しく、この作品に登場する久一と五百子のカップルは頗る気の合う二人で、無難で保守的な処世訓の信奉者である点においても見事な類似を示している。

「僕たちはどうあってもあんな人たちと同じ道は歩かないように気をつけましょう。僕たちはことあれかしと祈っている人たちの犠牲になってもはじまらない。早まりすぎた云い方かもしれないが、僕たちは後悔のない行い、着実な幸福、篤実な満足、大きすぎず又小さすぎない自尊心、こういうものに則った行動しかとりますまい。僕たちはありふれていて何一つとして例外のない生活だけを一生の目安にしようと努めましょう。僕たちは過誤あやまちに忠実であるように、理性にも忠実になりましょう。そうしてもう芸術家なんかが大きな口をきけないようにしてやりましょう。僕は創造つくられているだけで満足しているのに、あいつらは僭越にも創造ろうとする。それでいてあいつらは、人間の子供ほどに完璧なものを創造ったためしがないのです」(「鴛鴦」『女神』新潮文庫 pp.279-280)

 この麗しい恋人たちが共通の宿敵として挙げているのは「小説」であり「芸術家」である。彼らの健全な市民的道徳、如何なる不満とも無縁の即自的な充足は、わざわざ絵空事を拵えたり、他人の醜聞を題材に大仰な物語を作って大衆の拍手喝采を購ったりする小説家の不道徳な生活に対する敵意を養っている。彼らの幸福は完璧で、世間の模範として仰がれるに相応しい堅実な充足に鎧われており、それゆえの自己愛的な陶酔が、あらゆる煩瑣な苦悩を無効化するように彼らの精神を薄汚れた外界から防護している。小説家に対する彼らの清々しく不遜な蔑視は、彼ら自身の完璧で実際的な幸福に根差しているのだが、作者の視線は底意地が悪く、二人の幸福な自己陶酔の共有が所詮は幻影に過ぎないことを淡々と告知する。但し、作者の皮肉な眼差しは両義的な振幅を孕んでいるようにも感じられる。

「偶然の暗合ってあるものだね。久一も五百子も、おのおのの母親が小説家に欺されて生んだ子なんだよ。安心したまえ。その小説家は同一人じゃないさ。小説家なんて掃いて捨てるほどいるんだからね。ところで母親が芸術家を呪って胎教を施した。その結果、あんな見事な子供が生れたのさ。今日の新郎新婦の最大の幸福を教えようか? それはかれらが出生の秘密を知らないということなんだ」

 ――しかし私はこの皮肉家の中傷をきくまいとして耳に栓をした。(「鴛鴦」『女神』新潮文庫 pp.281-282)

 恐らく多くの典型的な小説は、登場人物が自らの「出生の秘密」を目の当たりにすることによって初めて物語のダイナミックな運動の渦中に抛り込まれる。けれども久一と五百子の健全な市民的幸福は、如何にも通俗的な「出生の秘密」という観念を排除することで成立している。彼らの欺瞞的な充足と陶酔を、作者の筆鋒は確かに揶揄しているが、その一方で、この作品の語り手である「私」は「皮肉家の中傷」に対して不快を覚え、耳を塞いでいるのである。それは「小説的なもの」によって毀損されようとしている健全な幸福の呪われた運命に対する拒絶の身振りではないのか。「芸術的なもの」と「市民的なもの」との折衷し難い疎隔に就いて、作者の価値的な判断は曖昧に結論を保留しているように思われる。

 久一は絵に描いたような好青年で、学業に就いては怠慢であっても、恵まれた家庭に生まれ育ち、就職には困らず、馬術という優雅な趣味を嗜み、優しくて温和な為人を備えている。彼は小難しい「分析」の悪癖に汚染されておらず、暴力的な肉慾に苦しめられて性急な悪事へ手を染めるような愚行とも無縁である。狂おしい恋愛の情熱と、それに伴って生じる数々の悲喜劇は、所謂「小説」というジャンルの取り扱う主題の中で最も普遍的な代物だが、そのような常軌を逸した奇行や乱行の類は、健全な市民的幸福の正統的な体現者である久一の与り知らぬ世界である。彼は専ら健康で安全な「自己満足」に淫している。

 恐らく作者は、久一と五百子が味わいつつある無難で退屈な幸福、日常性の権化であるような凡庸極まりない幸福を決して信頼せず、心から満足することも出来ない性質の人間である。しかし、それゆえに「完璧な幸福への自足」という聊か愚かしい男女の肖像に、一抹の憧憬を懐いたのではないかと推察することも出来る。尤も、そのように堅実で瑕疵のない即自的な幸福が、他ならぬ芸術家との不倫という如何にもロマネスクな出来事の所産であることを殊更に付け加える辺りに、作者の皮肉な冷笑を聴き取ることは容易である。三島の示した微かな憧憬が、嘲弄と綯い交ぜになった複雑な感情の或る側面に過ぎないことは明確だ。彼自身は決して、久一と五百子のような、殆ど「退屈」と同義語の市民的幸福に満腔の賛意を捧げようとは考えない。三島のロマネスクな本能は、赫奕たる日輪のような悲劇的栄誉を死ぬまで欲し続けたのである。日常的な現実への痛烈な峻拒は、彼の生得的な欲望が齎した必然的な措置なのだ。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫