サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

画一的幸福の破局 三島由紀夫「日曜日」

 三島由紀夫の短篇小説「日曜日」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 戦後的な風俗、経済的繁栄に基づいた「幸福な日常」への期待を露骨に嫌いながら、猶も世間の喝采を浴びて威風堂々たる文豪の地位を築き上げた三島由紀夫は、極めて風変わりで屈折した鬼才であったと言える。巷間の諸相を活写する簡潔な短篇の数々は何れも、保守的で退屈な人々への諧謔を帯びた悪意に満たされている。

 幸男さちお秀子ひでこは、財務省金融局の昼も仄暗い一室の末席に、机を向い合わせている。二人とも二十歳で、幸男は中学しか出ていないし、秀子は女学校を出てからここに勤めている。

 二人にはよく似た特徴がいろいろある。今言った同い年だということがその一つである。本俸三千九十六円に手当を加えた四千九百十円の給料がおそろいだという点がその二つである。いずれ劣らぬ陰日向のない働らき者だということがその三つである。(「日曜日」『ラディゲの死』新潮文庫 p.140)

 無論、一口に「戦後」と言っても、その内実は相反する様々な要素で占められており、戦後的な社会の特質を単一の定義で総括することは困難である。例えば、所謂「アプレゲール犯罪」の一つに数えられる「光クラブ事件」に取材した「青の時代」は、恐らく戦時下の焼跡の記憶を残光のように引き摺った虚無的な若者への言い知れぬ共感を密かに含んでいる。敗戦を契機として急激に勃興した「戦後民主主義」への憎悪を微塵も隠さなかった三島は、戦後の世相を嘲弄するような「アプレゲール」の青年たちの犯罪を、親密な心境で眺めていたのではないかと思われる。

 他方、彼は「経済的繁栄」を「幸福」と結び付けて少しも疑わない素朴な拝金主義、保守的な享楽主義を鋭く嫌悪し、糾弾していた。例えば短篇「百万円煎餅」に登場する若く健康的な夫婦は、堅実極まりない将来の人生設計の為に「性行為の実演」という際どい見世物を生業にしている。金銭を得る為ならば、夫婦の情事さえ商売の種になる社会の現状を、作者は皮肉な筆致で簡潔に粗描しているのである。市民的幸福、その慎ましく涙ぐましい計画性を、三島の内なる浪漫主義は明確に軽侮していたに違いない。

 幸男と秀子にとって、こうした日曜日の約束は、万障繰り合わせて守るべき何ものかであった。ティツィアーノの絵に、聖母昇天というのがある。一五一八年に描かれたこの傑作は、ヴェネツィアをしてルネサンスの高潮へ一気に乗り上げさせた劃期的な作品である。幸男も秀子も、ティツィアーノの名を知らず、その名に何の関心も抱いてはいまい。ただあの絵に、昇天する聖母の踏まえているかがやく雲を、一心に支えている大ぜいの童形の天使が描かれている。二人は丁度あの天使たちのように、一心不乱に、そうして辛抱づよく、彼らの日曜日を支えていたのである。(「日曜日」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.142-143)

 だが、或る一つの小説作品を、単一の主題や定義に結び付けて万事割り切れたと早合点するのは余り行儀の良い振舞いではないし、小説を味わう適切な作法の観点からも賢明であるとは言えないだろう。批判は同時に憐憫や痛ましい共感を含有し得るものだ。

 一組の無力で若い恋人たちは、財務省という官僚制の最たるものへ、人間の発案から生じながら却って人間の言行を強力且つ厳格に規制するように発達した官僚制の精髄へ組み込まれている。彼らの生活は社会的な要請というものに徹底的に呪縛され、英雄的な悲喜劇から遠く隔たった抑圧的な状況へ幽閉されている。そんな彼らにとって「日曜日」は、たった一つの個人的な救済、あらゆる束縛を免かれて無色透明の「個人」へ立ち帰ることの出来る唯一の聖域を意味している。無論、そのような特権的休暇を支え、規定している主体もまた、社会的要請の権化である官僚制の強権的な機構に他ならないが、それゆえに「日曜日」は誰に憚る必要もない公正な「救済」の効果を賦与されているのである。

 日ごろ命令されてばかりいる若い二人は、たまさかの自由な日曜をも、臨機応変に娯しむことができず、それで何ものかの命令に従う形を模して、こんな動きのとれない計画を立てたり、窮屈な約束を結んだりするにいたったものか?

 そうではない。彼らが自分たちの予定された日曜日を護っていたのは、それがともかくも彼らに護ることが可能であり、また原則上護ることが許されている唯一つのものだからであった。(「日曜日」『ラディゲの死』新潮文庫 p.143)

 実に矮小な価値と時間に過ぎないとしても、彼らの置かれた窮屈な境遇が、彼らの「日曜日」に個人の主体的な自由を庇護する貴重な権威を与えている。「日曜日」は特権的な聖域であり、謂わば彼らの実存の中核を成す神秘的な理念であるから、それに服属し、真摯な忠誠を誓う彼らの振舞いが、敬虔な様式や厳密な手順を欲するのは自然な成り行きである。こうした事実の構造に対して肯定的な見解を表明するか、否定的な視線を投じるかは、個人の主観的な判断に委ねられている。あらゆるものを社会に収奪され、権力の望む通りに馴致された若い二人の生活は「日曜日」という信仰の崇高な対象を必要としている。彼らは巨大な機構を構成する凡庸な歯車に過ぎず、その事実の裡に自らの生の価値の源泉を見出すことは不可能に等しい。彼ら自身の固有の感情、固有の思考、固有の生活を保障するものは唯一、手帖のカレンダーに塗り分けられた「日曜日」の規則的な到来だけである。それは超越的な恩寵のように、彼らの経験で素朴な信仰を支え、庇護している。「童形の天使」が「昇天する聖母」の足許を全力で支えるように、若い恋人たちは崇高な「日曜日」の恩寵を渾身の力で護り、敬愛しているのである。

 但し、こうした特徴は別に、幸男と秀子のカップルに限定されたものではない。河底に沈む僅かな砂金の燦めきのような休日の恩寵に、人生のあらゆる恩寵の源泉を見出す彼らの生き方は、戦後的な社会の隅々にまで瀰漫する普遍的な症候として扱われている。近代的な人間は誰しも、多かれ少なかれ、自己を独創的な個性に養われた特別な存在だと思いたがる心理的な疾病を患っている。けれども、その幻想的な錯覚は全員が共有している凡庸な謬見に過ぎない。作者は明らかに、幸男と秀子の類型的な生き方を「戦後」という時代の特質として抽象化し、概念化している。

 こういう詳述は、二人の主人公の服装の特徴を述べたものではない。これだけの描写で、春たけた日曜の早朝に、某駅でおのがじし相手を待っている若い人たち全部が推測されなければならない。つまりどれもこれも似たり寄ったりなのだ。(「日曜日」『ラディゲの死』新潮文庫 p.145)

 独創的な人間は、社会的な制度や一般化された道徳に巧く適合することが出来ない為に、不遇や迫害を強いられ、侮蔑や嫉視に苛まれ、その輝かしい栄光は常に法外な悲惨と踵を接している。人間が幸福である為には、そのような独創性は寧ろ積極的に棄却されねばならない。例えば三島の短篇小説「クロスワード・パズル」には、こうした消息に関する簡潔で適切な要約が織り込まれている。

 何という同じような微笑、同じような羞恥、同じような幸福だろう。僕は人間の野心というものは衆にぬきん出ようとする欲望だが、幸福というものは皆と同じになりたいという欲求だということを理会した。(「クロスワード・パズル」『真夏の死』新潮文庫 p.147)

 「幸福」という凡庸な理念、それは厳格な保守性によって支えられ、保全されている。自分自身の例外的な性質を誇りの源泉として認める代わりに、自分の存在が紛れもない人間の類的な性質に合致していることを歓ぶ消極的な心情が、我々の「幸福」を涵養する源泉の役目を担っている。「幸福」は「退屈」と切り離し得ない。画一性は刺激や興趣を欠いているが、それゆえに朗らかな平穏と安寧を供給し得るのである。

「こんな日曜日がもっともっといつまでも続くといいね」

「そうね、夏までも、秋までも、冬までもね」

「いや、来年も再来年もだよ」

「結婚してからも?」

「結婚してからも、さ。僕たちのサラリーが合わせて二万円、せめて一万五千円になれば結婚できないことはないね」

「でも、こんな日曜日の約束は何だか奇妙ね。どうしてあたしたちは、未来を全部自分の力で決めることはできないくせに、ほんの小さな取るに足らないことだけでも自分の力で決めたいと思うんでしょう。あたしたちの約束事が、未来のためにどんな意味があるんでしょう。三月さきの或る日曜日を藍いろの日曜日に決めることが、どうしてそんなにあたしたちにとって重大なんでしょう」

「それはね、つまり、僕たちのお祈りみたいなものさ」(「日曜日」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.152-153)

 同じ境遇、同じ季節、同じ風景が円環の如く繰り返し到来して、如何なる例外も変異も含まないことを、幸福な人間は静謐な心境で願い続ける。色分けされた日曜日は、言い換えれば、凡庸で幸福な人間たちの手で新たに生み出された特製の暦なのだ。予言ではなく、切実で幼気な祈念の象徴として、手帖のカレンダーは彩色され、未来の僅かな断片が無力な人間の掌に収められる。画一的な時間の反復は倦怠を齎すが、その堪え難い平穏こそ、人間が望み得る「幸福」の成立における最も本質的な要件なのである。尤も、三島はこうした通俗的幸福を聊かも尊敬せず、珍重もしていなかっただろうと思われる。彼が「鏡子の家」に登場させた稀代の狡猾なニヒリスト・杉本清一郎は恐らく、幸男と秀子の画一的な「幸福」に対して猛烈な嘔気を催すに違いない。

「そのとおりさ。世界が必ず滅びるという確信がなかったら、どうやって生きてゆくことができるだろう。会社への往復の路の赤いポストが、永久にそこに在ると思ったら、どうして嘔気も恐怖もなしにその路をとおることができるだろう。もしそれが永久につづくものなら、ポストの赤い色、そのグロテスクな口をあいた恰好を、一刻もゆるしておけないだろう。俺はすぐポストに打ってかかり、ポストと戦い、それを打ち倒し、こなごなにするまでやるだろう。俺が往復の路のポストに我慢でき、その存在をゆるしてやれるのは、俺が毎朝駅で会うあざらしのような顔の駅長の生存をゆるしておけるのは、俺が会社のエレヴェータアの卵いろの壁をゆるしておけるのは、俺が昼休みに屋上で見上げるふやけたアド・バルーンをゆるしておけるのは、……何もかもこの世界がいずれ滅びるという確信のおかげなのさ」(『鏡子の家新潮文庫 pp.38-39)

 眼前の現実を「崩壊寸前の世界」と看做し、熱烈に破局の不可避を信じ込むことによって、清一郎は画一的な反復に埋め尽くされた生の、息詰まるような倦怠を遣り過ごしている。こうした心理的性向は終生、三島の胸底を去らなかった極めて堅牢な信念であり、殆ど本能的な衝迫であったと推測される。だからこそ、彼は麗しい「日曜日」の唐突な破局を、滑稽なほどに無惨な恋人たちの轢死の裡に集約して描き出したのだろう。「日曜日」の破局は寧ろ、三島にとっては一つの崇高な「恩寵」を意味したのである。他方、彼は「日常性」という秩序の忌まわしい堅牢さに就いても目配りすることを怠っていない。

 役所の二人の椅子は、後任者があるまで空っぽになっていた。それでも事務は遅滞なく進行し、太陽は東からのぼり、火曜日のあとには水曜日があり、猫は鼠をとることをやめず、課長は宴会に出席することをやめなかった。(「日曜日」『ラディゲの死』新潮文庫 p.161)

 悲惨な轢死事件は特別な意義を附せられることなく簡潔に記述され、世界は驚くべき鈍感さで一つの惨劇を黙殺し、蹂躙しながら永遠の回転を維持する。余りにも強靭な秩序は、個人の悲惨な頓死さえも集団的な画一性の靄の裡に閉じ込めて隠匿してしまうのである。幸福な人間は、生死の境目に特権的な意義を認めない。だが、三島にとって破局と滅亡は絶対的な恩寵であり、栄光に満ちた死は、怠惰な長寿とは比較にならぬ神秘的な価値に鎧われていた。「無意味な死」は、三島が最も恐懼した絶望的な悲劇の形式である。

ラディゲの死 (新潮文庫)