サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

凡庸な恋路の結末 三島由紀夫「箱根細工」

 三島由紀夫の短篇小説「箱根細工」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 丹後商会は写真機を商う店である。銀座西七丁目にあって、裏通りの地味な店構ではあるが、銀座に二十年つづいている店はそうたんとはない。主人は二代目である。先代が地歩を築いて、昭和初年の不況時代に、勇敢に銀座へ進出したのである。

 丹後商会の慰安旅行は年に二回、盆暮に行われた。店員六人と番頭一人と主人との野郎ばかりの八人連れで出かけるのである。先代がはじめたこの行事は、銀座進出五年目以来の吉例であった。一回も参加を欠かさない唯一人の人間である番頭の吉村は、そのたびごとに目的地の選定や宿の連絡に忙殺された。(「箱根細工」『ラディゲの死』新潮文庫 p.164)

 この作品は、三島由紀夫の反社会的な思想が色濃く滲んでいる主流の系譜とは異なり、朗らかでありながらも一抹の哀切を含んだ典型的な人情噺の渋い装いを示している。三島由紀夫という作家は非常に複雑な人物で、その人格的な多面性、重層性は驚嘆すべき密度に達している。「禁色」「金閣寺」「鏡子の家」「憂国」といった彼の主要な作品に注ぎ込まれ、封じられている思想的な猛毒の凄まじい異臭とは裏腹に、実生活における三島は、極めて礼儀正しく几帳面な、つまり非常に洗練された社会性の持ち主であったと伝えられている。彼の重要な出世作である「仮面の告白」において明瞭に示されているように、三島は自己に内在する反社会的な性質の劇しさを持て余し、外界に対する己の不適合を憂慮し、精緻に磨き上げられた道徳的な仮面を被ることによって、社会と自己との不調和を緩和することを戦略的に選択していた。彼が若しも仮面を被った生活に完全なる充足を見出し得ていたならば、数多の不穏な作品、三島の特異な声価を華々しく高めた異様な文業の系譜が生み出されることはなかっただろうと思われる。抑え難い反社会的性質、凡庸で経済的な幸福への敵意、戦後民主主義への拭い難い嫌悪、これらの特性が見事に切除されたならば、三島は単なる器用で大仰な物語作者として遇される日々に安住することが出来たに違いない。

 言い換えれば、三島が持ち前の特異な思想や価値観を封じ込めて作品を執筆するとき、そこで問われるのは純然たる文学的技倆に限定されており、思想的な偏向を排された作品の系譜においては、専ら技巧的探究だけが重要な意義を有するのである。

 秀夫はどちらかというと、野球を見るよりは小説を読むほうが好きであった。一通りの運動はでき、腕などは逞しいが、野球にだけは怨みがあったのである。中学の時右手の小指を球で突き指をして、そのために小指が不自由になったばかりか、目立つほどではないが、すこし形が変ってしまったからである。彼は女の子と話すたびにこの指に気づかれたら嫌われると思うので、隠そうとして無理な手つきをする。そこで却って、「小指をどうかしたんですか」と詮索される羽目になった。

 彼は正義派で実直で、お店のことにかけては、まちがっているとなると主人にでも喰ってかかった。卸商から店に貼ってくれるようにたのまれていた新製品のポスタアを、ある晩のこと店じまいのあとで泥酔した主人が、鯉魚の一軸に見立てて見得を切って、そのあげく危うく破ってしまいそうになったことがある。秀夫はその手からポスタアを奪いとって背中に隠した。そして酔漢の顔を真正面から見据えて、先代以来恩義をうけている卸商の主人の名を叫んで、

「マスター、そんなことをなすって川村さんに悪くないんですか!」

 と半ば泣声で言った。この純情な諫言に酔いをさまされた主人は数日後、秀夫をゆくゆくは吉村の後釜に坐らせるために、その会計の仕事の見習に任命した。(「箱根細工」『ラディゲの死』新潮文庫 p.166)

 女性が不得手で、他人の不義理を看過出来ない直情的な性質が、この場面においては健康な美徳として扱われ、描かれている。他者の屈折した心理の解剖に畏怖すべき才腕を示した三島ならば、秀夫の純朴な正義を徹底的に意地悪く分析し、その内なる自家撞着を摘出して冷ややかに嘲弄することも容易であろうが、作者は穏やかな謙抑を旨として、物語の観察に際して饒舌な観念を持ち込むことを自ら遠慮している。

 つまり秀夫の中には健全でたのもしい庶民道徳が生きていたのである。流行に押されてアロハじみた仕立の薄色のシャツを着ているけれども、この青年は曲ったことが大きらいだった。友だちに借りた本は必ず二三日うちに返したし、財布を落せば、人にたよるのがいやさに、丹後家まで一里以上の夜道を歩いてかえって来たことがある。正義感を押し売りするところが玉に疵だったし、そのためにヤアさん(街では与太者をこう呼んでいる)と要らぬ喧嘩をすることもあった。暗い横町でからかわれている花売り娘に同情して、騎士道精神を発揮したのである。(「箱根細工」『ラディゲの死』新潮文庫 p.167)

 三島は剥き出しの身も蓋もない現実を剔抉しようと企てて「箱根細工」を書いたのではないように感じられる。彼は一つの素朴な幻想を、つまり古典的な「庶民道徳」の無害な右往左往を活写しているのである。登場人物の抱懐する内在的な論理が、極限まで敷衍されたり追究されたりすることもない。彼らは一つの揺るぎないキャラクターを、生成変化を知らぬ概念的な特性を終始堅持し、描き出される現実の枠組みは明瞭な輪郭を保って屹立している。言い換えれば、この作品には実存的な不安が含まれていない。一つの無害な虚構が、重苦しい観念を排した簡潔な筆致によって建造されているのである。

 秀夫は苦しそうな胸もとをくつろげてやろうと思ってふと帯に手をかけたが、帯の材木のような冷たい固さが救いであった。彼は爪でその帯を軽く引っかいたり、叩いたりした。するとひどく即物的な音だけがきこえて、女はじっとしていた。それをやめると、やはり女は死んだようにひっそりとしている。その沈黙がこわくなって、また秀夫は爪先で鼠が物を嚙むような音をさせる。

 しばらくすると、鹿の子は目をつぶったまま手をのばして行燈形のスタンドの灯を消した。秀夫は女が足で彼の足をはさむのを感じた。碇みたいだな、と秀夫は思った。自分の足に碇をつながれたような気がしたのである。(「箱根細工」『ラディゲの死』新潮文庫 p.181)

 純朴で直情的な秀夫は、芸者の鹿の子に翻弄され、恋に落ちる。彼女と結ばれることを願って、柄にもなく勤め先の金を横領する悪事さえ夢想するが、事態は荘重な悲劇にまでは窮まらず、二人の関係は呆気なく立ち消えて、平穏な日常が復帰する。その済崩しの離別の経過は、二人の恋の凡庸な性質を如実に表している。絶えず不道徳な恋愛に悲劇的な宿命の権威を下賜しようと試みる日頃の三島の筆致は、禁欲的な抑制の裡に封じ込められている。読者は有り触れた恋の結末に、有り触れた感想を喚起されて頁を閉じるだろう。

ラディゲの死 (新潮文庫)