サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「包括的固有性」という概念)

*例えば一般的な男女の関係において、整った顔立ちや肢体、行き届いた気配り、陽気で楽観的な雰囲気、これら諸々の要素は、その人間の魅力を構成する因子として、重要な価値の源泉であると認められている。配慮に満ちて、如何なるときも弱音や悪口を漏らさず、美しく弾けるような笑顔と、滑らかな肌や艶やかな頭髪を備えている人間に魅了されるのは、殆ど人間の類的な性向であると言えるかも知れない。

 これらの要素の中で一つでも、つまり秀麗な容貌だけでも持ち合わせていれば、他人から特別な感情を寄せられる可能性や頻度は大いに上昇するだろう。「美貌」という価値は、広範な領域に亘って通用する魅力の源泉であるから、それだけ幅広い人々に支持され、好意を向けられる見込みが高まるのは自然な成行である。

 だが、社会や共同体によって一般的な価値として認められている審美的な要素に基づいて、多数の人々から愛情を捧げられることは、少なくとも他者から一縷の愛情すら全く捧げられない性質の人間であるよりは望ましい状態であるが、同時にそこには固有の陥穽が潜んでいる。明瞭で分かり易い、いわば「通貨」のように普遍的で公共的な価値を有している為に愛されるということは、一歩間違えると、記号のように愛されるという事態に帰結しかねないからである。

 「美人であるから愛される」という命題は、必然的に「美人でなければ愛されない」という陰画を含んでいる。美人という部分的な要素ゆえに他人を魅力するということは、換言すれば「美人であるならば誰でも差し支えない」という他者の一般的な欲望に対する受動的な供給の役割を引き受けることに近似している。言い古された議論だが、真摯な愛情は対象の一般的な価値ではなく、或る包括的な固有性、個人的な全体性の価値を承認し、肯定する精神的作用である。美貌だけを理由に愛するのならば、その人間が愛している対象は飽く迄も、相手の有する部分的な要素としての美貌に限定されていて、相手の存在における包括的な全体性ではない。そして部分として切り出された美貌そのものは、必ずしもその人間に附随する固有の要素ではなく、或る一般的な性質を帯びた価値であるから、幾らでも交換が可能であるという結論に達する。「美人は三日で飽きる」という俗諺は、美貌の価値を毀損するものではなく、一般的な価値としての美貌が、つまり個人の包括的な固有性から切り離された美貌が、幾らでも交換の可能な「製品」のような性質を有しているということの簡潔な要約ではないかと思われる。

 「美貌」とは機能的な要素の一種である。或る個人の有している部分的な機能への愛着は、その個人を「製品」として取り扱うことに似ている。機能的な価値ゆえに愛することは、固有性に由来する価値への愛情とは全く異質な営為である。これは美貌に限らず、もっと心理的で不可視的な価値、例えば「誠実」や「優しさ」といった要素に関しても同様に指摘し得る問題である。特定の部分として抽出された「誠実」や「優しさ」は、或る規格化されたパッケージのようなもので、それは機能的な価値の表現に特化した構造を有している。そうした機能的な価値は、個人の有する或る包括的な固有性、もっと一般化された表現を用いるならば「個性」の部分を構成する要素の一つである。そして一つの局所的な機能が、人間の個性の総体を代表し、象徴し、独占するということは、真摯な愛情の主体にとっては有り得ない事態である。何故なら、人間の個性、或いは人間の「個性的存在」の様態は、何らかの機能的価値を示す為に整理され、規制されたものではないからである。

*「真摯な愛情」という曖昧な観念に厳密な定義を与えることは難しい。しかし、簡明な計測の基準を見出すことは容易である。「真摯な愛情」は、その愛情の客体に対する非常に強靭な「持続的関心」によって明証される。「浮薄な愛情」は、対象の機能的価値に向かって縛り付けられている為に、その対象が極めて容易に変動する。「美人であれば誰のことでも好きになる」という軽挙妄動は、こうした「機能的愛情」の集約された表現である。或いは「優しくされたら誰であっても好きになってしまう」という依存的な傾向もまた、こうした「機能的愛情」の典型である。

 「機能的愛情」は相手の固有性との間に緊密な紐帯を有していない為、その対象は原理的に変動を避けられない。従って強靭な「持続的関心」を期待することは困難である。だが、相手の包括的な固有性、つまり諸々の要素が集合する際の特異な相互的関係に対して結び付いた愛情は、対象を交換することが容易ではない。「美人は幾らでもいるが、貴方のような美しさは滅多に見つからない」という主観的な確信は、強靭な愛情と持続的関心を形成する重要な枢軸である。個性は、或る特定の機能的要素の強調や誇示によって形作られるのではない。諸々の要素が相互に絡み合う特異な関係性、その包括的な総和の形態が、各自の個性を規定する。個性に結び付いた愛情は、機能によって相手の価値を測定しない為、一般的な価値としての「美貌」に誘惑されて愛情の対象を切り替えるという行動に傾斜し難い傾向がある。

 もっと言えば、互いの個性の形態が相関することで生み出される「伴侶としての包括的固有性」が、最も強靭な愛情を支える根拠となるのではないか。頗る素朴な言葉を用いれば、それは「相性が良い」ということになるだろう。銘々は相互に異質な個人であるが、両者の個性の相関的な連携が、自他の境界線を飛び越えて、或る独自の包括的固有性を築き上げるとき、彼らの関係は或る揺るぎない紐帯で、第三者の容喙を許さぬほどに強化される。「伴侶」の関係における包括的固有性の樹立、これこそが「真摯な愛情」の理想的な境地である。それは外面的な「情熱」の有無とは無関係に生じる崇高な現象であると言える。

 包括的固有性という概念は、個人や伴侶の存在を「機能的価値」へ還元することに頑強な抵抗を示す。機能的価値に還元され得る総ての事物は、一般的な基準によって規格化された、原理的に交換可能な存在であり、そこに個人の実存的な「署名」を読み取ることは出来ない。規格化された「製品」に対する「消費者」の愛情は、極めて移り気で酷薄である。彼らは常に一般化された価値の基準に基づいて、夥しい対象を自在に選別する。だが、包括的固有性という概念は、そのような一般的選別を不可能にする権能を有している。相手の包括的固有性に魅了されたとき、我々は普遍的価値に基づいた一般的選別の無効を悟る。無論、それは必ずしも幸福な関係の成立を保証するものではない。不幸な形式で固定された「関係」における包括的固有性の悪夢から覚醒することは、時々酷く困難な作業と化すものである。