サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

対話篇「実務と教養」

甲:世の中には「実務的な知識」とそうでない知識が存在するという議論に関して、君はどういう見解を持っているかね?

乙:所謂「実学志向」の話かね? 仕事の役に立たない知識を大学で教えることに関して、主に経済界から批判的な視線が突き刺さっているという、例の現象かい?

甲:まあ、それも無関係な話ではないね。大学を高度な「職業訓練校」のように改造したいというのが、経済界の側からの独善的な要求であると共に、国家の方針でもあるというのが、私には聊か気に入らないのだ。新卒の学生諸君に職業的な意味で「即戦力」であることを要求するという社会的な風潮は、近視眼的だと思わないか? 我々人間は家畜じゃない。何らかの実利的な目的や価値の為に二十年も養われ、肥育されている訳じゃない筈だ。

乙:まあ、仰る通りだね。ただ、経済界の人間だって別に「優秀な家畜」が欲しいと考えている訳じゃないだろう。彼らが嫌がっているのは、この世界の現実から遊離した、ぼんやりした学生の集団を雇用するということじゃないのかい。現実に対する見識を欠いた、未熟な人間を望まないというのは、そんなに批判されるべき態度かね?

甲:現実から遊離した考えを持つこと自体が悪であるとは言えないと思うね。以前に私は君と「実務家の限界」に就いて議論を交わしたね? 現代の経済界が如何なる人物を欲しているのか、詳しいことは知らないが、優秀な実務家を求める余り、それ以外の要素を斬り捨てるという極端な選別が常態化するのは、人類の未来にとって危険な風潮だと思うんだよ。現実から逸脱する部分、それは要するにルクレーティウスの言葉を借りるならば「クリナメン」ということになると思うんだが、そういう要素を悉く排除して、常に現実への完璧な適応を追求するというのは、これはコンピュータの論理だ。人工知能の属性だよ。

乙:君は現代的なラッダイトのような科白を吐くんだね。機械的決定論からの逸脱が人間の尊厳であり自由の根拠であるというのが君の個人的な見解かね。

甲:実際、それこそが人間の実存における醍醐味であり、生きることの魅惑の源泉だと思うね。例えば「愛情」というものは、現実に対する過剰な適応を心掛ける人間にとっては、邪悪なノイズに過ぎないね? あんな不可解な感情を、実務家の論理は決して積極的に受容しようとは考えないだろう。自分の子供に対する極端で特権的な愛情に、実務家の論理は無用だろう? 両者は水と油の関係じゃないか。

乙:だが、過剰な愛情は時に狂気と化す場合があるね? 現実に対する合理的な対応を排除するのも、過剰な適応と同様に、危険な弊害を含んでいると僕は思うね。水と油を乳化させる企てが人間の生活には必要なんじゃないか?

甲:実務家的な適応の価値を完全に否定する積りはない。ただ、それだけに尖鋭な仕方で特化するのは人工知能の発達に委ねておけばいいと思うんだ。多くの雇用が、シンギュラリティの時代には優秀な機械の手で簒奪されるだろうと言われているね? そのときには、単なる実務的な能力は容易に、洗練されたプログラムの体系に置き換えられてしまうだろう。そのときにも残存し続ける人間的な価値を、どうやって私たちは育むべきなのか、それを真剣に考究することが肝腎だと私は訴えたいのさ。

乙:それで君は、実務的な能力よりも理論的な能力の方が、シンギュラリティの時代にあっても簒奪されず、今までと変わらずに人類の主権の下に置かれ続けると信じているのかね? それは聊か楽観的な視点ではないかね。論理的思考は、人工知能によって簡単に置換され、代行され得ると言われているではないか。

甲:理論的な思考というのは、単に論理的な手順を辿ることだけを意味するのではないよ。例えばプラトンイデアに関する学説が、純粋な論理的考察だけで出来上っていると君は思うかい? 論理的な法則は、現実の構造の反映であって、物理的な法則の写像だ。プラトンならば、物理的な法則の方が論理的法則の不完全な写像だと言い立てるだろうがね。私が言いたいのは、理論というものが現実からの自在な離脱を含んでいるということだよ。それは論理的思考そのものとイコールじゃない。理論的思考の可能性は、眼前の具体的な現実の「超越」の裡に存在するんだ。論理の厳密さや精緻さということは、そういう「超越」の広範な可能性に比べれば、所詮は些末な問題に過ぎないね。

乙:「論理」と「理論」とは異なるという君の見解は、何だか言葉の遊戯のように感じられるね。そもそも、これらの言葉を用いて僕たちが何を指し示しているのか、その点を克明に示さなければ、この議論は生産的な価値を欠いてしまうんじゃないかね?

甲:それは至極、尤もな提案だね。「論理」というのは、或る思考の流れの中から一般的に抽出される普遍的な規則のことだと言えるんじゃないだろうか。人間の持つ様々な考え方、それは色々な知識や情報の聯関として産み出される訳だが、それらの聯関における共通の形式、純化され一般化された形式の類型が「論理」と呼ばれているのではないだろうか。言い換えれば、それは世の中に存在する様々な思考の体系を厳密に明晰化することで取り出される、或る抽象的な約束事の群れなのだ。

乙:随分と迂遠な説明だな。つまり、それは様々な思考の内容とは無関係な、思考の「法則」或いは「規範」ということかね?

甲:私たちの社会では頻繁に「論理的な思考」の価値が喧伝されているね? それは視点を変えれば、私たち人間が「非論理的な思考」を実行する能力や可能性を持っているという事実を傍証している。思考が論理的な性質と不可分であるならば、殊更に「論理的思考」の価値を称揚したり強調したりする必要は生じないからね。例えば「論理学」という学術上の分野は、そういった一般的で普遍的な規則としての「論理」の機能や構造に関して、専門的に考究する領域であると言えるだろう。「論理」は専ら思考の形式或いは規則に関わるもので、思考の内容と結合するものではない。

乙:だが一般に、非論理的な思考は、論理的な思考に比べて価値の劣るものだと看做されているね? 多くの矛盾や飛躍を含んだ思考は、いわば純化されていない、不透明な混濁の裡に置かれていて、現実的な妥当性を欠いていると批難されるのが通例ではないかね。

甲:実践の領域において、曖昧な思考が何故か、現実的な有効性を大いに発揮するということは有り得ることではないかね? 思考が論理的な明晰さを欠いていたとしても、様々な感覚や経験的な記憶の混ざり合った、度し難いほどに錯綜した思考の力によって、新たな現実が開拓されるということは珍しい現象ではない。寧ろ、私たちはそうした「不可解な威力」の顕現に対して「創造的である」という肯定的評価さえも賦与する慣わしではないかね?

乙:それならば一体、世の中に蔓延する「論理的思考」への信仰告白は、如何なる根拠に基づいて行われていると考えるんだい? 論理的な明晰さに、君は如何なる価値も創造性も認めない覚悟なのか?

甲:そうじゃない。論理の効果というものは確かに存在する。ただ一般に漠然と信じられているほど、論理の効果は万能ではなく、或る意味では非常に限定的なものであるに過ぎないと言えるだろう。論理とは「思考の抽象化」であり、それは要するに「思考の明晰化」ということだ。それは思考の流れにおける内在的な聯関の構造を明示する為の道具なんだ。「思考の自意識」と呼び換えてもいいだろう。「論理的に考える」ということの本来の定義は、自らの展開する思考の内容を厳密に吟味し、その内訳を精細に解剖するということだと、私は思うね。

乙:それならば「理論」とは一体何なんだい。それは「論理」という概念と如何なる点で異なっているのかね?

甲:「論理」は常に「明晰である」ことを自らの定義の裡に含んでいる。けれども、私たちが個別に信奉する銘々の「理論」は、必ずしも「明晰である」ことを必要としていない。「論理」は「過程の明晰化」だが、所謂「理論」は発端から終局へ向かう大雑把な「過程」そのものの構築だと言える。極論を言えば「理論」には前提と結論さえ伴っていれば、それで直ちに成立し得るのだ。或いは「物語」なのだと看做しても、差し支えないかも知れないね。「理論」を構築することと、その過程を明晰化することとの間には、重要で決定的な「次元の差異」が関与しているんだ。

乙:それで君は、論理という或る限定的な武器に固執することに野心を燃やしているのではなく、もっと猥雑な要素も含んだ、或る綜合的で包括的な思考のようなものに、軸足を置こうと企図しているのかね? 単に論理的な明晰さや正しさを追究することには関心がないのかね。

甲:それほど重要なことではないと言えるだろうね。無論、局面によっては何よりも「明晰化」への意識が求められる場合もあるだろう。だが、それは「人間が思考する」という営為の本質を成す過程ではないと思うね。部品を洗浄することと、色々な部品を組み立てて或る巨大な構造物を組み立てることとは、相互にイコールではないだろう? 無論、部品の洗浄は大切なことだ。そこから新たな発見が析出されることもあるだろう。けれども、それらの部品は洗浄される為に存在している訳ではない。構造物の一部として、構造物を形成する為に開発され、選択されて、その場所に配置されている筈だ。「論理的思考」という概念そのものを、究極の切り札のように崇め奉っても仕方ない。論理的に物事を捉えれば精確な「正答」に辿り着けるという考え方は見通しが甘いと思うんだよ。

乙:それならば君は一体「理論」という言葉を用いて何を描き出し、何を指し示そうとしているんだい? 「理論」を構築する能力は、論理的な演算に長じることとは別の話なんだとしたら、それはどのような構造に基づいていると看做すべきなんだ?

甲:「理論」は、必ずしも現実の論理的な解釈に依拠しているとは言えない筈だよ。精確な計算だけが、画期的な数学上の発見を齎すとは限らない。「論理」に関する知識が、思考の流れに一定の方向性を賦与することは事実だ。しかし、私たちの精神はそれほど受動的な機構ではない。重要なのは、或る目的や発見に向かって論理的規則を巧みに配備することだ。論理は手段に過ぎず、それは革命的な理念を創発するものじゃない。言い換えれば「理論」には或る奇態な情熱や野心的な意志の働きが必ず包摂されている筈だ。その奇妙な「欲望」のような力が、論理的規則という「道路」に従って前進していくんだ。何処に目的地を設定するかという判断と、どの道路を経由するべきかという判断とは、同一の次元には属していないだろう?

乙:随分と本題から逸れている気がするね。君自身、本来考えたかったことが何なのか、分からなくなっているんじゃないか?

甲:そうかも知れないね。今日はこれで切り上げることにしようか。