サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(宿命と覚悟)

*来月になれば、このブログを書き始めてから四年の歳月を閲することとなる。四年というのは案外大した長さではないかと思う。新生児と四歳児では、人間としての諸機能が段違いに異なる。新卒で入社した世間知らずの若人も、四年も働けば一応は一人前の面構えとなるだろう。

 これまでに書いた記事の本数は既に九〇〇を超えている。勿論、総ての記事に同等の熱量を渾身の力で注ぎ込んだとは言い難い。けれども、曲がりなりにも九〇〇件の文章を認めたことは事実で、相応の労力が費やされたこともまた事実だ。文章の主題は様々だが、形式としては、極めて個人的な思考の垂れ流しと、持って回ったような読書感想文が七割程度を占めている。読者登録数は蝸牛の歩みで増えているが、既に稼働しなくなったアカウントが数多含まれている。四年もあれば、人の生活は色々な事情に掻き回される。日々の暮らしの律動も、思想や信条も、簡単に変化してしまう。栄枯盛衰と言ったら大袈裟だろうか。

 こんな風に、抒情的な雰囲気だけの文章は余り書きたくない。明確な主題が何も思い浮かばないから、こうやって散漫な文章が漏出するのだろう。考えるべき対象を、獲物を狙う狩人のように追い詰めるときには、半端な感傷に包まれた言葉の群れを連ねている暇などない。立ち止まって莨を吹かすように、抒情の線香花火を燃やすのは、狩人に相応しい振舞いではない。文章は明確な主題を備えるべきだ。少なくとも、明晰な結晶を欲して奮迅するべきだ。生半可な感慨など不毛である。

*何故、書くのか。この問いも、或いは空虚な感傷に類する設問かも知れない。勝手にすればいいと余人は顔を背けるに違いないからだ。確かに、勝手にすればいいのだ。何を選ぶか、という問題は、実際には大して重要な事柄ではない。人は思わぬ運命に不意に首根っこを掴まれて、そのまま未知の世界へ足を踏み入れることで、己の人生を成立させることの多い生き物である。例えば結婚が、総ての異性と関係を持った上で総合的な順位表に基づいて相手を選択するものではないように、人は総ての手札を眼前の卓上に揃えてから、自分に必要なものを選り抜く訳ではない。重要なのは、与えられた途の上で死力を尽くすことだ。他にどんな生き方が考えられるだろう?

 書くことで、私は自分の頭の中身を整理しているに過ぎないのだろうか。或いは、日頃の生活においては人に話せないような思考や想念を、デトックスのように吐瀉しているに過ぎないのだろうか。単純に、書くこと自体に奇態な愉楽が附随しているのだろうか。どれも互いに重なり合った正しさであるように思えるが、単一の結論を導き出せる自信はない。書くことで救済されるかと言えば、そんなことはない。文章を書くだけで解決する問題など、この世に一つも存在しない。世界を変革するのは「思考」ですらなく、ただ只管に「行動」のみである。そして「行動」を支えるのは「理論」でも「経験」でも「技術」でもなく、明確な「意志」と「情熱」だけである。

 書くことによって聊かでも精神は支えられるだろうか? これに就いては、一定の効用が見込まれるように思う。濁った視界を磨き上げる為の方途として、或いは溜まった汚泥を綺麗に洗い流す為の手段として、執筆は簡便で有効な選択肢であると言える。無論、誰にでも当て嵌まる再現性を伴った手段であるとは言い切れないが、文章に顕すことで、我々は自身の内部に潜水し、複雑な関係を洗い出して、秘められた事実の構造を少しずつ浮き上がらせることが出来る。言い換えれば、書くことは我々の内なる思考や感情に鮮明な輪郭を与える行為だ。それによって何かが劇的な変貌を遂げる訳ではないことは、百も承知である。鮮明であろうと濁っていようと、事実は事実として厳然と存在する。ただ、明澄な視界を確保することは、その後の行動の性質を変えていくだろう。現実に対して有効な選択肢を確保することが少しは容易となるだろう。つまり、書くことは生きることを部分的に支える手段なのである。それによって行動の質的な水準が向上すれば、確かに私の属する世界の風景は徐々に変貌していく筈である。

*二箇月前に配属されたばかりの若い女性社員と面談した際に、彼女が退職の意思を漏らした。周囲との関係が巧く咬み合っていないことも引鉄の一つであったには違いないが、根本的には、彼女が仕事を愛さず、全力で取り組んでもいないことが原因であると私は判断した。愛情というのは自発的なもので、だからこそ尊い。技術的な事柄は幾らでも訓練や座学を通じて習い覚えることが出来るが、主体的な意志や情熱は、当人が自分自身の内面を掘削して水源を探し当てる以外に途がない。主体的な意志がなければ、如何なる教育も無益である。寧ろ当人にとっては熱心な指導が苦痛や罪悪感の種となる。

 この「主体的な意志を発掘する」という作業が苦手な人は実に多い。私自身、若い頃は何度も仕事を抛ったし、嫌なことがあれば直ぐに逃避したがる性格であった。その性質は、今でも完治した訳ではない。そもそも、これは完治し得る見込みのない普遍的な病理なのである。それまで果敢に困難な現実への挑戦を重ねてきた人であっても、不条理な運命に直面した場合には、極めて容易に潰えることが有り得る。だからこそ、不撓不屈の意志と情熱を自分自身の裡に養うことは、生きる上で最も大切な心掛なのである。端的に言って、退職の意思を口にした彼女は明らかに挫折していた。自分にはもう、この仕事は出来ないし決して愛せないと断念していた。無論、首を吊りたくなるくらい辛いのならば、あらゆる手段を講じて現実から安全な距離を確保することが望ましい。だが、面談を終えた翌日以降は、憑き物が落ちたように清々しい表情で働いていた。けれども退職の決断は変わらないと言い張るのである。もう辞められるという想いが、彼女の希望を恢復したという訳だ。けれども、この仕事を逃れたところで、現実の構造は変わらない。別の場所で息を吹き返して、再び戦う気持ちを取り戻せるのならば、退職も一つの有意義な結論であろう。それ自体を批難する積りは全くない。

 その後、私の上司と当人が面談を行なった。彼女はコンサルティングの仕事がしたいとか何とか口走ったようで、上司も苦笑していた。現職において、自らの役割を熱心に愛することも出来ず、周囲の同僚との円滑な関係を構築することも出来ない人間が、コンサルティングをやりたいと言い出すのは単純に不可解である。多分、辞める理由を探すことに躍起になっているんだろうねと上司は言った。その心情は、私にも理解出来る。煎じ詰めれば、人間には眼前の困難な現実と戦うか逃げ出すか、何れかの選択肢しか与えられていないのである。戦わないのならば、巧く誤魔化す以外に術はない。

 戦った結果として敗北を喫するのならば、そこには未来への種子が宿る。仮に成果としては後退であっても、当人の人生においては、その敗北さえも果敢な前進の一環であることに変わりはないのである。逃避する習慣は、何処かで念入りに断ち切っておく必要がある。それは一旦習慣として成立すると、容易に当人の精神を解放しないからである。戦うことを習慣化しなければならない。環境を革めただけで、その転轍が劇的に進捗するとは私には思えない。