サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

対話篇「具象と抽象」

甲:先日、君と「抽象」と「具象」に就いて議論したのを覚えているかい?

乙:覚えているよ。今年最初のアイスコーヒーを飲んだ日だ。印象深いね。

甲:あの話題に就いて、あれから徒然に考え込んでいたんだよ。なかなか重要な問題じゃないかと思ってね。君は同じように関心を持ってくれているかな?

乙:君ほど熱心に同じ話題に就いて考え込むような気概はないがね。僕は飽き性だし、移り気な男だから。

甲:その点、私は偏執的な性格だからね。実務家と理論家の違いというものに関して、彼是と断片的に考えを巡らせていたのだ。抽象と具象とを往復することが大事だと、確か私は君に意見を開陳したね?

乙:ああ。それに関しては、私も特に異論は示さなかったように思うが。

甲:その通りだ。ただ、聊か綺麗事のような結論に至ったことに、身勝手な話だが、ささやかな不満を覚えたんだ。抽象と具象との往復が大事というのは、いわば理想論だね。理想が美しいものであるのは大切なことだ。だが、人間は誰しも理想と乖離した現実の中で、日々の具体的な生活を営んでいる。個性というものは、基本的に「偏向」を含んでいるものだ。実務家には実務家に固有の偏向が、理論家には理論家に固有の偏向が存在する。その偏向の実態というものを適切に把握しなければ、両者の間には不毛な反目が生じてしまうだろう。そういう反目を、綺麗事の理想論で一気に統合して克服してしまおうと考えるのは、余り合理的な解決ではないように感じた訳だ。

乙:相変わらず厄介で世話の焼ける男だな。じゃあ一体、どういう結論が望ましいと君は思うんだい。議論というものは、理想を描かなければ役に立たないだろう? 既存の現実を追認するだけならば、理想なんてものは最初から不要に決まってるじゃないか。

甲:別に眼前の現実に屈服して白旗を挙げようという積りはない。だが、偏向というものが現実に存在することを理解した上で、互いに妥結し得る場所を発見しなければ、対話は常に喧嘩別れに帰結してしまうだろう。例えば「実践」という主題を掲げた場合でも、そもそも実務家にとっての「実践」の定義と、理論家にとっての定義との間には、根本的な隔たりがある筈だ。その隔たりを計算に入れないで、両者の齟齬を看過した状態のままで議論を進めても、有効な対話というのは成立しないんじゃないだろうか?

乙:まあ、それはそうかも知れない。じゃあ兎に角、君の目下の見解を聞かせてもらおうじゃないか。実務家にとっての「実践」の定義とは一体、どのようなものだと看做しているんだね。

甲:実務家にとっての「実践」は、正しく日々の生活そのものだろう。彼らはどんな抽象的な理論よりも、荒唐無稽の妄想よりも、形があって眼に見える、或いは指先で触れたり掴んだりすることの可能な現実を愛するだろう。それ以外のものは総て、遠く離れた異国の街路を打つ驟雨のように、縁遠くて無意味なものだと看做しているだろう。因みに附言しておくが、これは厳密な意味で定義された理念としての「実務家」の話だよ。

乙:心得ているさ。そういう人間にとって、実践するということは生きることの総てを占めているだろうね。考える暇があったら行動すべきだと、そういう連中は言い切って揺らがないだろう。

甲:それは、この時代の趨勢にも符合している態度だろうね。これだけ目紛しく技術の発展が現実の構造を書き換えてしまう時代にあって、生半可な思考や議論は直ぐにその価値を掻き消されてしまうだろう。さっさと現実の変化に適応して、その変革の猛烈な進展に縋って生きた方が、何かと話も早い。行動せずに考え込んでいる間にも、現実は凄まじい勢いで革命的な変貌を遂げてしまうのだから、考えている時間は無意味な浪費ということになるね。

乙:何だか物言いたげな表情だな。君はそういう現実に何かしらの不満を懐いているのかい?

甲:「実践を重んじる」と以前の議論のときに強く主張しておきながら、私自身が迅速な転身に踏み切っているようで心苦しいが、そういう気持ちは正直に言えば、私の中に確乎として存在しているね。「実践一辺倒」の時代的な風潮は、合理的であることは間違いないが、それで何もかも判断されたり裁定されたりするのは、落ち着かない気分だ。少なくとも、愉しく明るく生きるということは、目紛しく移り変わる現実に引き摺り回されることとは違う筈だ。

乙:それは君が最近、妙に熱心にプラトンの対話篇ばかり読み漁っていることの影響じゃないかね? あの「超越」と「普遍」の権化のような人物の息遣いに接し過ぎて、少しずつ空中に浮遊し始めていることの紛れもない証拠じゃないかね?

甲:そういう見方をされるのは構わないが、そんなに話は簡単じゃない。私は要するに「理論」と「実践」との不毛な相剋を是正したいんだよ。理窟っぽく振舞えば口先ばかりと罵られ、夢中で行動すれば浅慮だとか短見だとか罵言を浴びせられる、そういった類の下らない循環に終止符を打つ方法を思案しているのさ。

乙:それで、何か手懸りは掴めたかね? 掴めていないから、こんな閑人を捕まえて議論を仕掛けているのかね。

甲:私は両者の相違点を正しく理解し把握することによって、余分なボタンの掛け違えを抹殺したいと目論んでいるのさ。例えば、実務家にとっては「眼に見える現実」が最大の価値を持つ。それ以外に価値を生み出す源泉があるという考え方には嫌悪を示す。そして彼らの最大の特徴は、現実の「細部」に対する過剰なまでの執着や配慮だ。「神は細部に宿る」という金言は、実務家たちの揺るぎない伝統的信条だと私は思う。こういう特徴は、彼らの思考の主要な形態が「具象的なもの」に支配されていることの反映ではないだろうか?

乙:要するに君は「具象化」の作業が「情報の増大」を齎すということを言いたいんじゃないのかね? 例えばプラトンは、その反対に向かって議論を突き詰める種別の人物だ。君はプラトンの発想や価値観に惹かれているのかね?

甲:話はそんなに単純じゃないんだ。ただ、私がプラトンの考え方に或る奇怪な浮遊感のようなものを見出して距離を感じながらも、一方ではプラトンの誇大な妄想の力が、様々な理性的思考の威力の最も突き詰められた形態なのではないか、だからヨーロッパの文化の根底に存在すると認められているのではないか、という考えに傾きつつあることも事実だ。その意味では、君の洞察は正しい。しかし、私はプラトンの思想を一から十まで肯定している訳じゃない。「国家」の中に登場する素朴な道徳主義や優生学的発想に対しては、明確に否定の意志を突き付けてやりたいと考えているよ。

乙:だが、君はプラトンの思想が含んでいる可能性に肯定的な見解を懐いているんじゃないのかい。「実践一辺倒」の風潮に異議を唱えようとする姿勢自体が、プラトンの影響下において形成された精神的な「傾斜」であると認めたらどうなんだい。

甲:私が惹かれているのは、プラトンが具体的に示した思想的信条ではなくて、飽く迄も彼が数多の対話篇を通じて示した思考の「方法」であり「様式」の方だ。内容云々は、時代的な変化に応じて幾らでも古びるだろうし、そもそも我々が暮らしているのは、古代ギリシアの土地から空間的にも時間的にも遠く隔たった極東の島国だ。思想的内容に関して、私が彼の意見に魅了されるという可能性は極めて低いと君は考えないのかね?

乙:君はプラトンの思想を「内容」と「形式」に切り分けて論じようとしているのかね? 個人の思想が、そんなに綺麗に「骨」と「肉」とへ分離されるということが有り得るとは、僕には到底信じられないね。

甲:だが、人間の死骸を想像してごらん。肉の部分は死後直ぐに腐敗して崩れ去ってしまうが、骨の部分は長い間、風雪に耐えて原型を留め続けるだろう? 思想に関しても同じことが言えるんじゃないか。厖大な歴史的時間の堆積に堪え続けて、骨格としての「方法」や「形式」は残り続けるのだと。

乙:それで、プラトンの思想において重要なのは「方法」という骨格の部分だと君は断定するのかね? 肉の部分には然したる関心も持たないと?

甲:逆に言えば、それが私の人格における「抽象性」の間接的な証明であるということになるのかも知れないね。滅び易いものには関心を持たず、永続するものや中核的な要素により多くの知的な興味を惹かれるということは。それをプラトニズムへの親和性だと指摘されれば、その通りだと頷くのが公正な態度だろうね。

乙:漸く自供したか。君は「実践」よりも「思索」や「理論」により多くの関心を寄せる性格なんだろう。そうでなければ、例えば話題が「実践」であるにせよ、知識と実践との関係性に就いて長々と議論を戦わせて飽きないなんてことにはならないだろうからね。「実践の重要性」を強調する為に論陣を張るという振舞い自体が既に、充分に理論的な姿勢だと言えるんじゃないかね?

甲:まあ、確かに君の指摘は正鵠を得ているかも知れないね。全面的に同意し得るとは思っていないが。理論家という人種は恐らく、現実の「細部」に関して、実務家よりも遥かに愛情が稀薄であると言えるだろう。彼らが見たいと願っているものは、この肉眼の視覚的な解像度を向上させることで捉えられる対象ではない。彼らが関心を寄せるのはもっと抽象的で、肉体的な感官を通じては実在を確かめられないような、或る想像的な構築物だ。プラトンが肉体的な感覚による認識の価値に対して非常に懐疑的な、いや、露骨に批判的な態度を示していることは、君も知っているね?

乙:余り真摯な興味は持っていないがね。断片的な知識として、彼が「眼に見えない現実」を重んじていたという話は耳にした経験があるよ。

甲:実務家というのは眼に見えない範囲の事柄を相手に選ばないということに、一つの倫理的な美徳というか、道徳的な制約を置いているものだ。眼に見えず、触れることも出来ない事柄は、具体的な実践や行動を推し進めるに当たって、不必要な、考慮に値しないファクターに他ならない。それらに関わり合って虚空に視線を彷徨わせるのは、紛れもない時間の空費ということになる。極端に言えば、実務家に必要なのは「現在」という時間と場所の地点だけだ。そうじゃないかね?

乙:それに対して理論家は、この瞬間的な「現在」からの乖離を意識的に求めるという訳かい? 彼らは寧ろ実務家とは反対に、今この瞬間の感覚が捉えられないような不可視の対象を探究し、解明すると?

甲:そういうことだ。理論家の精神は、この瞬間的な現在への没入を嫌がるものなのさ。勿論、これは概念として厳密に想定された「理論家」の生態の話だけれどね。一般的には、人間はこの二つの軸の間を絶えず流動的に往還し続けている。ただ、意識の上で、何れの極に偏り易い傾向があるかという問題は、これとは別に存在している話だと思うんだ。誰だって両者の要素を中途半端に分有して生きていると言える。けれども、人間には必ず「偏向」というものが備わっている筈で、その偏向が、その人間の生き方や価値観や信条の形成に重要で決定的な影響を及ぼしている筈だと思うんだ。

乙:相対的に「理論家」の要素が強い人間と、「実務家」の要素が強い人間が存在している、或いは統計的に分布していると言いたい訳かい?

甲:そうだ。そして自分自身に関して個別的な観察を施すならば、恐らく私の内面には理論的なものへの志向が根強いように感じるんだ。けれども時代の環境は、必ずしも厳密な「理論」への要求を高ぶらせているとは言えない。理論よりも技術的な進歩の速度が余りに目紛しくて、必然的に感覚的な現実に駆り立てられてしまい易い状況が作られていると思う訳だよ。

乙:そういう軋轢というか、葛藤のようなものに君は苦しめられ、悩んでいるという訳か。そういう社会の現実的な構造に異議を申し立てたいと考えているのかね?

甲:苦しむとは言わない。そこまで現実の構造に圧倒されているとは言わないさ。だが、現実に追い立てられ、技術に呑み込まれているばかりでは、それは思想も理想も持たない完璧な実務家、恰かも人工知能のような実務家を養成するばかりじゃないかと、御節介な危機感を覚えているのさ。

乙:なるほど、君は「慨世の士」を気取っているという訳かい。そんな実務家ばかり育てたら、世の中の人間は悉くシンギュラリティの時代に、人工知能に覇権を簒奪されてしまうと嘆いている訳だね。

甲:実際、そういう危険は決して小さくないと思うね。理論を欠いた実務家、現実に対する過剰な適応を示す実務家ばかりを殖やしても、それは人間の本来的な可能性、固有の可能性を毀損するだけだと思うね。

乙:人間の本来的な可能性とは一体、何だね?

甲:生命体の本質は、それが感覚的で現在的な事実の列なりに刃向えるという点に存すると私は考えているんだ。無生物は、現実の構造に何もかも規定されて、絶えず必然性と因果律の内側で眠るように存在している。けれども人間は違う。人間の意志は、そういう現実の必然的な構造を組み替える力を持っている筈だ。今この瞬間の現実だけを見ていたら、私たちは「可能的な現実」を想像する力を徐々に失っていくだろう。言い換えれば、過剰な実務家は絶えず「眼の前の現実」の中に閉じ込められてしまうということだ。「マトリックス」という映画の中の人物たちのようにね。

乙:だが、逆の視点を持つことも可能だろう。極端な理論家の生態に検討を加えてみるのはどうだい? そういう批判的検討を行わずに、実務家の限界だけを言い立てるのは公正な議論であるとは言い難いね。

甲:では、過剰な理論家の特徴とは何だと君は思うのかね?

乙:僕の考えでは、彼らはいわば感覚的な現実との間の「摩擦係数」を喪失した人間たちだ。彼らの思考は、感覚的な現実から完全に切り離されて、経験論的な制約を一切蒙らない。従って彼らの意見は如何なる妄想にも奇態な信憑にも容易に結び付くだろう。極限まで亢進した理論的性向は、恐らく殆ど「狂気」と区別がつかないんじゃないかね。プラトンの「イデア」や「霊魂の不滅」に関する高尚な学説にしたって、あれを立証する為の現実的で客観的な根拠が存在するとは言えないだろう? それが形而上学的な思考に課せられた構造的で宿命的な限界なんだからね。そういう危険を理論家の精神が宿しているということは、充分に考慮されねばならない要件だと僕は思うね。

甲:まあ、聊か極論ではあると思うけれど、それはお互い様だね。確かに君が言う通り、感覚的な現実との相関を失った理論的思考は、自ら望めば幾らでも法外な妄想の世界へ飛翔していくことが可能になるだろう。目下の現実の構造とは無関係に、理想的な神話の世界を、幻想の裡に構築することが出来るし、その幻想を現実と交換してしまうことだって不可能ではないだろう。或いはプラトンが「対話篇」という形式での執筆に生涯固執し続けたのは、その「他者との対話」という仮構が、現実から遊離した巨大な思想の体系を、日常的な現実に連結しておく為の「纜」のような役目を担っていたからなのかも知れない。赤の他人の意見を受け容れる回路を遺しておくことで、理論的な思考が完全なる狂気の領域へ移行してしまわないように工夫していたのかも知れないね。