サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「ソクラテスの弁明」に関する覚書 1

 ルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)を読み終えたので、今度はプラトンの『ソクラテスの弁明』(光文社古典新訳文庫)に着手している。

 エピクロスにしても、その思想的後裔であるルクレーティウスにしても、彼らが自らの思想を、真摯で綿密な哲学的探究を通じて徐々に耕し、その稔りを豊饒なものに育て上げていく過程において、プラトンの遺した著述が重要な参照の対象として意識されていることは明白である。エピクロスプラトンの思想に対して批判的な見解を有していたように見えるが、良くも悪くも西洋の哲学全体が、プラトンという偉大な思想家の築き上げた成果から、豊富な滋養を吸い上げながら繁茂したことは否み難い事実であり、プラトンの思想を肯定しようと否定しようと、その決定的で深甚な影響の裡に無数の学説と世界観が形成されたという歴史的経緯を安易に黙殺することは出来ない。

 尤も、これは世上に流布する通俗的な見解の要約であって、私自身が実地の努力を通じて獲得するに至った知見ではない。或る事実の真偽を糺し、誤謬や臆見に惑わされることなく、世界の実相を成る可く正しい形で把握する為には、当事者の意見を徴するのが最良の選択肢であり、又聞きによって生じる不可避的な曲解の弊害に溺れるような振舞いは慎重に忌避しなければならない。プラトンの遺した著述に関する夥しい世評の数々を渉猟して、彼の思想に関する価値の判定を試みるのは、臆病で怠慢な態度である。重要なのは、自分自身の頭で解釈に挑戦し、他者の意見に支配されるのではなく、自分自身が築き上げた意見に支配されるべく努めるという心掛である。そうでなければ、書物を読むという営為に何の意義が存するだろうか? 見ず知らずの他人に就いて、その周辺の事情に通暁した身近な人間の有する見解を訊ね、それを以て当事者に関する評価に代えるという迂遠な判断の方法は、誠実な倫理に悖る行為ではないだろうか?

 偉大な人間の意見に素直に耳を傾けるのは賢明な振舞いであるが、「傾聴」という単語は必ずしも盲目的な同意や熱烈な共感を意味するものではない。「傾聴」が意義を有するのは、それが事実の精確な理解の実現に資するからであり、既に築き上げられ、堂々と屹立する外在的な権威の後光に屈する為に、傾聴の美徳が案出された訳ではない。相手が誰であろうと、事実の精確な理解を自己の目的に据える以上、盲目的な肯定や自動的な吸収は厳格に慎まれるべきである。例えば「ソクラテスの弁明」の中で、プラトンの筆鋒によって描き出された哲人ソクラテスは、他人の意見に関する「吟味」の重要性を繰り返し強調している。この「吟味」という作業は、哲学的探究の最も重要な中核に位置する過程である。

 職業的な哲学者ではない人間が、つまり専門的な学識を欠いた市井の労働者が、哲学的探究の意義に就いて私見を述べるのは、醜悪で驕慢な振舞いだろうか? だが、そもそも哲学とは社会的な分業の対象となるべき任意の分野だろうか? 換言すれば、哲学的探究の精神とは、専門的な訓練を受け、豊富な教養を蓄積した一部の人間だけが保有すべき何らかの精緻な技巧なのだろうか? ソクラテスは糊口を凌ぐ為に石工の仕事に就き、妻子を養うという最も凡庸で崇高な責務を引き受けていたと伝えられる。彼は象牙の塔に籠り、夥しい書籍の群れに囲まれて日々を過ごすような生活とは無縁であった。それは哲学的探究の精神が本来、如何なる社会的権威とも閉鎖的な専門性とも無縁の性質を備えていることの傍証であると言えるだろう。

 哲学の精神が示すのは、我々の主観を繋縛する厖大な偏見や誤解や歪曲の驚嘆すべき威力である。我々は知らぬ間に種々の恣意的な認識に囚われ、素朴な事実よりも他人の意見や共同体の重んじる伝統的風習や、黴の生えた道徳的な訓誡を優先する。それは我々が「事物の正しい認識」に対する関心を、極めて安直な仕方で冷遇していることの明瞭な証左である。事実に反する諸々の俗説や、実効性の曖昧な処世訓に塗れながら、個人的な利益を追求するのが我々凡夫の平均的な生き方である。それを直ちに「怠慢」と断定し得るほどの勇気と覚悟を、現在の私は持ち合わせていない。「フィロソフィー」(philosophy)の原義である「知を愛する」という精神的な性向は、万人が普遍的に支持する実存的規範ではない。実際に我々は卑俗な社会的生活の随処にて、真実を口に出すことの不都合な側面を充分に学んでいる。目上の人間に、面と向かって非難の言葉を投じる者は少ない。強者の不正を果敢に糾弾する者も少ない。真実を述べて痛手を蒙るよりも、小さな嘘を積み重ねて眼前の局面を凌いだり、自己の利益を擁護したりする方が賢明で「世慣れている」と看做され、称讃されるのが我々の住まう社会の実情である。そのとき、我々は「知」よりも「名誉」や「金銭」や「安楽」を遥かに力強く愛しているのである。

 だが、インクの香りが濃密に煮詰められた立派な書斎に籠って、日夜古今の偉大な典籍に親しみ、知性的な探究の世界を逍遥している人間だけが、例外的に俗人の特徴を免かれていると安易に信じ込むことが許されるだろうか? そのような発想は明らかに哲学的探究の精神、即ち「愛智」の精神に固有の原則に抵触する考え方に基づいている。如何なる社会的立場に置かれていようとも、人間にとって「真実」を直視することは往々にして、堪え難い苦痛を伴う破滅的な営為である。人間は身も蓋もない真実よりも、安楽な幻想を好む生き物なのだ。そうした本能的傾向を一概に非難し、強硬に糾弾することが本当に可能であると言えるだろうか? 哲学の目的は他者の問責ではなく、冷厳なる真実、身も蓋もない索漠たる真実を暴露することに存する。その帰結が時に、ソクラテスの刑死に象徴される社会的な迫害に到達し得ることに、我々は着目しなければならない。巷間に横行する様々な集合的偏見の欺瞞的な側面を照らし出すことは、場合によっては一身の破滅を招く危険な行為なのである。

 けれども、そのような社会的破滅が、世界の冷厳なる真実を歪曲する権能を備えている訳ではない。確かに真実は、必ずしも我々の生活を幸福に導くものではない。時にそれは我々の社会的な地位や外聞を危うくする。だが、それが真実の価値を減殺することは有り得ない。そもそも真実というものは、社会の判定する価値の相対的な基準を超越している。我々が如何なる思想や信条に囚われていようとも、哲学的探究の精神は「現に世界はこのような仕方で存在しているのだ」という峻厳且つ滑稽な真実を告示する。真実を語る者を処刑することは可能だが、真実そのものを処刑することは出来ない。そして真実の把握と告示は、歴史的に形成された謬見に縛られて様々な軋轢や弊害を生じている不完全な社会の構造を是正する上では、絶対に欠かすことの出来ない重要なプロセスなのである。

ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)

ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)