サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ルクレーティウス「物の本質について」に関する覚書 6

 引き続き、ルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)に就いて書く。

 エピクロス=ルクレーティウスの提唱する倫理学的な知見にとって、最も深刻な堕落と悪徳の種子となる危険を秘めているものは「欲望」と「恐怖」の二つである。「欲望」は、その対象が実現の困難な事物と結合した場合には、病的な執着を人心の裡に蔓延させ、満たされない現実に対する認識の峻拒を惹起する弊害を有している。つまり、非現実的で不可能な欲望の虜囚と化した人間は、現実の適切な認識を喪失する危険を孕んでいるのである。

 同時に「恐怖」もまた、現実の不可解な性質に対する無智と混乱に由来する悪性の感情である。人間は己に備わった持ち前の知力では理解することの困難な対象に逢着したとき、恐怖の感情に囚われる。その不可解な事物に向かって如何なる対処を試みればいいのか、如何なる行動に踏み切ればいいのか、その判断を確定することが出来ないからである。

 言い換えれば、欲望と恐怖は共に人間の精神を混乱させ、客観的な現実に対する正常な認識を歪曲し、閉鎖的な幻想の裡に隔離する危険な効用を備えているのである。不可能な欲望に囚われたとき、我々はその欲望に対する執着を無限に増殖させ、最終的には、不可能な欲望が充足されない現実の諸条件を拒否するという退嬰的な叛逆に陥る。不可能な欲望を断念したり、適切な形態に縮約したり、そうした欲望の理性的な調整を施す為には、現実的構造への客観的で冷静な注視と把握が必要である。

 一般に欲望への執着は、その欲望が充足の状態へ到達した時点で解消される。欲望は原理的に「欠如の補填」という運動の構造を備えているので、その欠如が解消された時点で運動は一旦、休止されるのである。けれども、不可能な欲望に囚われた場合、そうした「欠如の補填」が適切に実施される見通しは立たないので、欲望への執着は無限に長期化する。実現が不可能であることを悟り、欲望の対象を切り替えたり範囲を縮減したりする理性的な調整が行なえれば良いが、そうした柔軟な対応に移行し得ずに、報われない執着を延々と引き摺って宿痾にまで悪化させてしまう人間も決して稀な存在ではない。

 こうした過度な執着の状態に陥ってしまうと、人間はその報われない欲望に意識的な関心の過半を奪われて、他の対象へ結び付けられた欲望を励起することに困難を覚えるようになる。結果として、様々な欲望が充足へ向けた行動に結び付かないまま放置されることとなり、その個人の実存における不満足の総量は飛躍的に増大してしまう。これは健全な状態ではない。人間の欲望は現実的に処理される必要があり、不可能な欲望に無際限に執着し続ける状態と同様に、あらゆる欲望を実質的に抑圧し続ける状態も、倫理学的には不幸な頽廃の要因に計えられる。

 こうした執着の齎す苦しみから逃避する為に、人間は「忘却」を目的とした行動への依存を示し始める場合がある。こうした欲望は、本来の欲望を代理する営為として顕現し、その目的は欲望の現実的な解消ではなく、不可能な欲望の持続という不都合な現実の抑圧に存する。従って、こうした代理的な欲望は原理的に「欠如の補填」という目標へ到達する可能性を持たず、一時的な「忘却」の効果を頻繁に要求し、頻繁に「覚醒」によって当初の期待を裏切られるという無際限な構造の内部を循環することとなる。

 こうした「忘却」への欲望は、不可能な欲望そのものの忘却ではなく、その欲望が不可能であるという事実からの逃避を目指す衝迫である。その衝迫の解消に向けて重要なのは、その欲望が不可能であるという事実を心理的に受容する作業を試みることだ。そうしなければ、忘却を目的とした諸々の「陶酔」への不可避的な要求が、無限の回帰を反復することになってしまう。

 不可能な欲望への衝迫を棄却し、可能な欲望への衝迫を重んじること、これが「欲望」に関する基本的な倫理学の枠組みである。端的に言えば、それは広い意味で「欲望を現実化する」ということだ。欲望の現実化、つまり充足を安定的に確保していく為には、欲望そのものの実際的で可能的な構造に着目しなければならないのである。

 そして「恐怖」は、不可能な欲望への執着が現実的な認識の棄却に由来するように、不可解な現実の理解に向けた適切な努力の不足に基づいて発生する感情の形態である。本来、不可解な現実との対面は、知性的な好奇心を涵養し、理智的な探究への意欲を刺激するものである。だが、未熟な理性にとっては、不可解な現実とは純然たる恐怖の対象であり、それは既成の世界観の枠組みを震撼する野蛮な威力を備えているように感じられる。

 不可解なものに対する否定的な意識、これは人間の類的な特徴の一つであると言えるだろう。不可解なものを解消したいという性急な欲望への屈従は、現実に関する適切な理解への欲望よりも強烈で、普遍的な性質を備えている。「不可解なものを解消したい」という欲望と「現実を精確に理解したい」という欲望との間には、表層的な類似の関係しか介在していない。「不可解なものを解消したい」という欲望は、知性的な野心の表現ではなく、現実に関する保守的な方針の表明である。彼らは「分かり切ったもの」だけに囲まれて生きることに巨大な安息を見出す。未知の異郷への憧憬は、軽率で浮薄な欲望として排除される。旧習を墨守し、進取的な改革に反発し、制度の刷新よりも屈従を愛する閉鎖的な心性が、不可解なものへの敵意を醸成するのである。保守的な人間の抱え込む主要な欲望の命題は「不可解なものの隠蔽」である。だが、知性的な好奇心に駆られた人間の主要な欲望の命題は「不可解なものの解明」である。

 不可解なものへの否定的な意識が、超越的な絶対者としての「神」の関与を要求し、総ての事物の不可解な側面を「神意」という不可知の理念に還元することで、不可解なものへの恐怖を鎮静しようと試みる態度を培う。こうした保守的な実存の形式を批判する為に、エピクロスの自然学的探究は、積極的に「神意」に基づく宇宙論の解体を目指す。例えば「神の怒り」の象徴と看做されがちな「雷」の発生原因に就いて、物理的な構造の探究に情熱を燃やすのも、気象学的な知見を不可知の「神意」から解放する為であろうと考えられる。不可解なものを抹殺する為に超越的な絶対者を召喚するという守旧的な怠慢は、人間的な知性の減衰そのものである。エピクロスの思想は、人間的な知性の勇敢なる「自主独立」を実現するという崇高な目的に向けて捧げられている。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)