サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

エピクロス「教説と手紙」に関する覚書 2

 引き続き、エピクロスの『教説と手紙』(岩波文庫)に就いて書く。

 悪しき「享楽主義」(hedonism)という汚名を着せられたエピクロスの思想が、実際には極めて穏健な「節制」の規範に基づいていることは、彼の遺した著述の断片を徴するだけでも明瞭に汲み取ることが可能である。彼は劇しい享楽的な興奮や高揚を重んじたのではない。それによって人生に付き纏う倦怠や絶望や不安を一挙に清算しようと試みたのでもない。実際には、エピクロスの思想はそうした危険な享楽主義の対義語の集成として存在している。

 つぎに、自己充足を、われわれは大きな善と考える、とはいえ、それは、どんな場合にも、わずかなものだけで満足するためにではなく、むしろ、多くのものを所有していない場合に、わずかなものだけで満足するためにである。つまり、ぜいたくを最も必要としない人こそが最も快くぜいたくを楽しむということ、また、自然的なものはどれも容易に獲得しうるが、無駄なものは獲得しにくいということを、ほんとうに確信して、わずかなもので満足するためになのである。(『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 P71)

 エピクロスは極端な禁欲や清貧の思想を推奨した訳ではない。最も重要なのは、欲望を追求するかしないかという二者択一ではなく、欲望の対象への執着を除去することである。欲望そのものを廃絶するという不可能な挑戦を志したのではなく、欲望に対する支配権を確立することを企図したのである。

 欲望は現実的でなければならない、これがエピクロスのみならずセネカの裡にも共通して指摘し得る倫理的な規矩である。彼らは欲望そのものの充足を否定したのではない。欲望が充足されること自体は、堅実で本質的な幸福の基礎を成す現象である。しかし、人間は欲望の齎す快楽に魅惑されて、限度を無視し、法外な野心に囚われ得る生き物である。

 現実に充足される見込みのない欲望を持つこと、これがあらゆる不合理で極端な「享楽主義」を生み出す源泉として機能する。不可能な欲望を懐くと、人間は解消される希望のない現実的な不満と煩悶に苛まれることとなる。そうした苦痛は堪え難いものであり、不可能な欲望を棄却することだけが、慢性的な苦痛を免かれる為の唯一の賢明な方途であるのだが、棄却することが困難に感じられる場合、人間は苦痛の一時的な忘却を欲するようになる。それが種々の「陶酔」(intoxication)に対する「依存」(dependence)を招来する。こうした依存は奇態な心理的強制力を保持しており、そのとき人間は欲望に対する主体的な支配権を喪失する。本質的な欲望の充足が現実の構造によって禁じられている為、そのような苛酷な現実を失念する為の心理的な「麻痺」(paralysis)を希求するようになるのである。

 つまり、あらゆる依存的な嗜癖は、不可能な欲望の禁圧が齎す余燼のようなものなのである。欲望の禁圧から派生する諸々の依存的症状は、幾ら反復しても根源的な充足に到達することが不可能なので、欲望の禁圧に伴う苦しみ自体が解消されない限り、無限に回帰し続けることになる。こうした症状が極限まで高じた場合には、堪え難い現実的苦痛を免かれる為の自傷及び自殺が発生するだろう。

 現実に対する否認、それがあらゆる依存的嗜癖を成立させる根源的な要因である。或る特定の欲望が現実的な問題として充足されないとき、その欲望を節制するのではなく、欲望を充足へ導かない現実そのものを否認しようと図ったとき、人間は精神的な「麻痺」を欲することになる。現実に対する否認が最も危険な水準まで亢進した場合には、恐らく人間の精神は狂気の裡に幽閉されるだろう。

 エピクロスセネカも、つまり「ヘレニズム」(hellenism)の哲学者たちの考案した倫理的美徳は総て、こうした虚しい執着の持続と反復的連鎖を断ち切る為の試みとしての性質を有している。或いは西洋に限らずとも、例えば釈迦の開創した仏教の壮大な観念的体系もまた、欲望とそれに附随する夥しい痛苦の問題に対処する方策を追究し続けてきたのである。欲望を最低限に抑制することで、それが満たされない場合に生じる苦痛の総量を減らそうと試みることは、少なくとも数千年の歴史に基づいて人類が導き出した最も合理的な選択肢であると言えるかも知れない。

 だが、欲望の抑圧が最も重要な思想的課題だとは言えない。本当に大事なことは、欲望が満たされないという現実の不快な構造を承認することである。どんなに欲望を抑えようと試みても、欲望そのものは人間の主体的な制御に完全に隷属するものではない。また、欲望が充足されないという現実は、本来ならば凡庸な事象に過ぎず、殊更に騒ぎ立てたり幼稚な否認を試みたりする必要のないものである。仏教における「四諦」の教義は(苦諦・集諦・滅諦・道諦)は、欲望そのものの完全な死滅を正しい道程として祝福しているが、こうした教義の体現が万人に可能であるとは言い難いところから、大乗仏教の運動が勃興したのではないかと思われる(「煩悩即菩提」の発想)。そもそも、我々の欲望が完全に死滅してしまったら、そのとき人類の社会は滅亡してしまうだろう。

 満たされない欲望、それが諸悪の根源であることは明瞭な歴史的事実である。従って諸悪を滅する為に、欲望そのものの全面的な廃絶を企図すること自体は理に適っている。だが、こうした発想は、倫理学的な格闘の前提である「生きることの肯定」という基準そのものを棄却している。極論を言えば、欲望の廃絶という思想は不可避的に「人類の全面的な滅亡」という発想に帰結せざるを得ないのである。これは欲望の悪しき側面だけに着目し、極めてペシミスティックな感覚に依拠して織り上げられた破滅の思想である。ここまで極端に飛躍してしまえば、確かに抜本的な解決は齎されるものの、問題の前提自体が崩壊することになる。生きるのが辛いなら死ねばいい、という「安楽死」の発想は、相応の合理性を含んでいるものの、必ずしも最良の選択肢であるとは言い難い。

 病的な禁欲は、病的な享楽と同様に、我々の精神を度し難い頽廃の裡に眠らせてしまう。禁欲は自死を、享楽は狂気を招来するだろう。その何れにも偏倚せず、飽く迄も認識の現実的な妥当性を堅持することが、倫理学の探究における最も根源的な要件であると私は考える。

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)