サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「迂遠な独裁」としての民主主義

 「民主主義」(democracy)は、一般に最も穏健で現実的な、つまり現代の世界においては最善の政治的選択肢であるという印象を纏っている。だが、我々の推戴する代議士たちの不毛な闘争の風景を眺める限り、このような印象が如何なる根拠に基づいているのか、茫漠たる困惑に囚われることもまた一般的な事実である。堕落した民主政が「衆愚政治」(ochlocracy)という蔑称で批難されることを我々は知識として弁えている。「多数決の原理」が常に最善の選択肢を支持するとは限らないという事実は、我々の信奉するデモクラシーの根源的な脆弱性を立証する重要な論拠である。

 民主主義が多数決の原理に政治的正当性の根拠を据え続ける限り、民主主義とは一個の独裁主義に他ならない。選挙や審議という煩瑣な手順を内包している為に、それは絶対王政の如き個人への極端な集権を制限する機能的側面を備えていると言えるが、その歯止めが常に有効であるとは限らないし、最も根源的な問題は、多数派の意見が最善の意見と必ず同義である必然性を欠いているという点に存している。多数派の意見が総ての成員の総意に置き換えられ、多数派の支持する政府が国民の総意を表象するという便宜的な擬制が働いている場所では、少数派の意見は極めて容易に蹂躙される。

 民主主義は構成員の平等を建前として掲げており、その能力や品性の格差に関わらず、銘々の政治的権利は同一の価値を担っていると看做される。従って公然たる階級社会のように、特別な身分の人間が国家の方針や重要な政治的決断を左右することは容認されない。それゆえに、多数派の意見を国家の総意の近似値として重んじるという便宜的な制度が案出された訳であるが、それは飽く迄も次善の策であるに過ぎず、その効用は専ら特定の個人の恣意的な判断によって巨大な集団の存亡が左右されるという危険な構造への抵抗に尽きている。

 だが、多数決の原理は必ずしも独裁者の出現を阻害しない。二十世紀における最悪の独裁者の一人であるアドルフ・ヒトラーは、選挙を通じて民衆の支持を獲得した上で、国政の頂点に登極した。後に彼が推し進めた様々な政治的施策は、確かに民主的な議会制度に対する破壊的な鉄鎚の効用を備えていたが、少なくともその出発点においては、ヒトラーの独裁は民主主義の手順に則って誕生したのである。

 多数決の原理は、多数派が権力を掌握するという我々の身も蓋もない現実の政治的反映である。それは確かに神格化された個人による極端な独裁を予防したり制限したりする一定の効果を伴っているが、不完全な発明であることは争えない事実である。多数派による支配は、諸々の手続きと規則によって不本意な渋滞と遅延を強いられた、いわば「迂遠な独裁」なのだ。

 だからこそ、民主主義は自由主義との融合を要求する。民主主義そのものは、多数派の優越を重視するばかりで、容易に少数派の弾圧へ傾斜してしまう危険を孕んでいるからである。自由主義に基づく少数派の権利や利益の保護が同時に組み込まれなければ、多数派の優越という原理は直ちに多数派の絶対化という「偽装された独裁」に掏り替えられてしまう。重要なのは、この微妙な「混同」、時には政治的必要から敢えて意識的に執行される「混同」の含んでいる毒薬のような権力である。冷静に考えてみれば、僅差で採否の決まった問題に就いて、多数派の見解が最善の妥当性を有すると宣言するのは軽率な振舞いであろう。況してや安倍内閣のように幾度も多勢を恃んで「強行採決」に踏み切るような政治的態度は、明らかに民主主義における多数決の原理の意図的な悪用の所産である。採決の完了を問題の解決と等価であるかのように取り扱う姿勢は、余りに技術的な判断だ。政治が単なる技術と化してしまえば、確かに多数派による「強行採決」は一つの効果的な戦術ということになるだろう。だが、我々は単なる技術の為に生きている訳ではない。