サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「プロタゴラス」に関する覚書 1

 古代ギリシアの哲学者であるプラトンの『ソクラテスの弁明』(光文社古典新訳文庫)を読了したので、今度は同じ著者の『プロタゴラス』(光文社古典新訳文庫)に着手した。

 現代的な日本語に即した、平明な訳文をコンセプトに掲げる光文社古典新訳文庫の一冊である所為か、内容に関する私の理解の水準は兎も角、通勤の往復の道程で瞬く間に読み終えてしまった。こんなに読み易くていいのかと微かな不安を覚えるほどである。私が関心を持った部分に就いて、備忘の為に私的な断簡を遺しておきたいと思う。

 稀代のソフィストとして名高い賢人プロタゴラスと、若き日のソクラテスとの問答を活写したこの対話篇は、人間の美徳(ギリシア語における「アレテー」)を中心的な主題に据えている。この主題に附随して、両者の交わす議論は具体的な徳目や快楽原則にまで、その範囲を拡張して営まれる。

 作中でソクラテスの口から語られる、快楽を善と看做し、苦痛を悪と看做す簡明な快楽原則は、後代のエピクロスセネカにも明瞭な思想的痕跡を刻んでいる。そして人間が時に快楽を悪と看做したり、進んで苦痛を求めたりするのも、煎じ詰めれば快楽原則の制御された形態(それをフロイトならば「現実原則」と呼ぶのだろう)の齎す行動であって、根本的な次元においては、快楽を善として定義する発想は聊かも改訂されていない。そしてソクラテスは、現実原則を適切に運用して快楽を最大化し、苦痛を最小化する為の「知識」或いは「知性」の重要性を強調し、知識の獲得と鍛錬こそが人間的美徳の中核を成すものであることを明示する。

 こうした倫理学的構図は、エピクロスセネカが提唱した美徳の観念との間に寸分の差異も有していないように見える。美徳の涵養の目的が、快苦=善悪の原理に軸足を置き、欲望の適切な制御を実現することに向けられているという認識は、ソクラテスの個人的な信条ではなく、ヘレニズムの世界の随処に滲透した普遍的な着想であったように思われるのだ。

 例えばエピクロスの学説は、同時代の人々から野蛮な「享楽主義」(hedonism)であるという誤解、或いは意図的な曲解に基づいた攻撃を浴びせられていたが、辛うじて散逸を免かれた彼の乏しい著述を徴する限り、彼の思想が放縦な享楽を推奨するものでないことは明白である。少なくとも、様々な苦痛や罪悪を意に介さず、没我的な情熱を以て無限の快楽に耽溺し続けようと試みる、過激で盲目的な享楽主義の頽廃と、エピクロスの掲げた倫理学的要諦は聊かも符合しない。彼は極めて素朴な見解を、つまり不可能な欲望の渇仰は断念し、可能な範囲で欲望の現実的充足を図り、成る可く苦痛や混乱から隔たるように努めるべきであるという単純な倫理学的規範を示しただけである。

 同時に彼らは、つまりソクラテスエピクロスセネカは、現実を精確に把握し、理解することが、不毛な渇愛や無用の恐懼を除去する為の最も有益な方法であると考えていた。その為に彼らは、様々な論理や認識を「明晰化」する努力を積み重ね、多くの過ちが真理に関する誤解から生じることを熱心に挙証したのである。

 例えば不可能な欲望への執着は、様々な「無智」を培地として増殖する不幸な心理的現象の典型的な事例である。実現の不可能な欲望に固執して、その実現に対する希求を棄却出来ずに心を呪縛されるのは、不可能である公算が極めて高いにも拘らず、一縷の希望的観測を完全に否定することが出来ないからだろう。傍目には如何に無謀で不毛な挑戦であるように見えたとしても、当事者の眼には、惨憺たる風景の彼方に僅かな希望の光輝が照り映えているように感じられるのである。彼らは明晰化の手続きの埒外に流謫を強いられ、無智の裡に蹲って、空虚な幻想に拘束されている。

 欲望を制御し、快苦を適切に計量し、天秤が悪へ傾くことのないように絶えず配慮を怠らないこと、その為に現実の構造を明晰化する知性的な意志を鍛えること、これがソクラテスの提唱する倫理学的な規範である。尤も、彼はそのように声高な教説を人々の耳に向かって訴えかける訳ではない。客観的な事実の検証に血道を上げ、閉鎖的な象牙の塔の一室に蟄居する訳でもない。ソクラテスの掲げる信念は常に、人々の認識を明晰化することで、真実に向けた澄明な視野を開拓し、無智蒙昧の弊害を払い除けることに最大の価値を見出している。その意味で、彼は自然科学の敬虔な使徒ではない。純然たる物質との熱心で孤独な対話に従事する研究室の主人ではない。彼の関心は常に人間の存在と精神へ思考の照準を合わせている。

 そもそも「美徳」という主題が、自然科学の考究の対象となる無言の物質とは異なるものであることは明瞭である。ソクラテスの思索は常に倫理学的な主題と緊密に結び付き、人間の精神の構造に対する執拗な関心に駆り立てられている。彼は快苦と善悪との間に実質的な対応関係を措定し、人間の精神が知性的な省察と判断を駆使して、快=善を希求する原理的な傾向を備えていることに着目した。彼の考えでは、苦=悪そのものを進んで追求する者はいない。純然たる悪を追求する行為は無智の産物であり、若しも適切な知識が与えられたならば、如何なる悪人も己の愚昧を悔いて、積極的に快=善を欲するように変貌するだろう。

 だが、現実を明晰化しようとする意志が、単に何らかの知識の不足や偏見による汚染の害悪を蒙って妨礙されているだけならば、確かにそのような「改悛」の経験を期待することは可能であると考えられるが、若しも明晰化への意志自体が破綻を来した場合には、恐らく「改悛」は不可能となるだろう。異様な享楽主義、頽廃の極致とも呼び得る形式の享楽主義は、恐らく快楽を求めているのではなく、現実の明晰な構造を破壊するような「陶酔」を欲している。「陶酔」(intoxication)の役割は、人間の明晰な理性を解体し、現実という堅牢な枠組みから解放することに存する。「陶酔」は「快楽」の同義語ではなく、過剰に高められた「快楽」若しくは「苦痛」によって齎される「理性の解体」を指している。

 無智が悪を齎すというソクラテスの見解は、こうした「陶酔」の邪悪な性質をも密かに包摂していると考えることが出来る。明晰化の意志の欠如は、現実の破壊を目論む邪悪な精神を肥大させ、増殖させる。明晰化の意志は現実に対する肯定を必ず含むが、陶酔への意志は、現実に対する断固たる拒絶を金科玉条として信奉している。例えば「自殺」は「陶酔」の最も過激で決定的な形態である。一時的な苦痛を、最終的な快楽へ到達する為の必要な過程として忍耐する理性的な規範に照らせば、自殺は一切の意図的な断絶であるゆえに、明らかに不合理な行為の範疇に属する。それは「陶酔」の本質的な原理を露わに明示している。自殺者は快楽を求めるのではない。彼らは現実の全面的で絶対的な無効化を望んで、究極の結論に身を投じるのである。

プロタゴラス―あるソフィストとの対話 (光文社古典新訳文庫)

プロタゴラス―あるソフィストとの対話 (光文社古典新訳文庫)