サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

廣川洋一「ソクラテス以前の哲学者」に関する覚書 1

 比較的容易に手に入る限りでのプラトンの対話篇を一通り読み終えたので、目下、廣川洋一の『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫)の繙読に着手している。

 極めて断片的で通俗的な思い込みとして、所謂「哲学」の歴史は、古代ギリシャの賢人ソクラテスから始まるという認識が私の脳裡には刷り込まれていた。肝腎のソクラテス自身は、アテナイの民衆との直接的な対話や議論に終始して、自らの思想を手ずから著述という形式で記録することはなく、生前の彼の姿と学説は専ら弟子に当たるプラトンの作品の裡に窺われるのみである、というくらいの素朴な知識は弁えていたが、実際にプラトンの遺した夥しい対話篇を渉猟してみると、特に「パイドン」以降の作品に登場するソクラテスは明らかに、プラトン自身の思想を代弁する腹話術の人形のように見える。初期対話篇に登場する「アポリア」(aporia)のソクラテスと、自信満々に己の思想を開陳する神話的でプラトニックなソクラテスとの間には、明確な差異が介在しているように思われる。その程度の認識さえ、これまでの私は持たずに過ごしてきたのだ。

 プラトンの著述が後世のヨーロッパに齎した巨大な衝撃は今も衰えておらず、二十世紀の哲学者たちも、所謂「プラトニズム」(platonism)に類する主張に関して賛同するにせよ批判するにせよ、何れにしても彼の思想的な遺産に言及しないまま、固有の哲学的思惟を推し進める訳にはいかなかったらしい。それゆえに西欧の哲学を語ることは直ちにプラトンの思想を論じることに等しく、彼の独創的で画期的な業績を欠いては、そもそも「哲学」という文化的領域自体が、この世界に形成されることは有り得なかったという根強い印象が瀰漫しているように感じられる。けれども、如何に独創的な天才と雖も、自らの置かれた歴史的或いは地理的な条件から微塵も制約を受けずに、何らかの有益な成果を築き上げることなど不可能であるに決まっている。プラトンという哲学者が一個の重要な里程標であることは揺るぎない事実であるとしても、彼の登場する以前の時代においても、多くの頭脳明晰な賢者たちが粘り強い思索に打ち込み、世界の真理に関する様々な構想を粗描し、彩色していたという史実を閑却するのは、妥当な判断であるとは言い難い。生物学的個体が必ず産みの親を持つように、文化的果実もまた、伝統的な蓄積を土壌として花開くのが通例なのである。

 そうであるならば、ソクラテスプラトンの師弟関係を絶対的な「始原」(arkhe)と定めて、現存する資料の乏しさを理由に、それ以前の人類の思想的格闘を黙殺するのは明らかに不当な措置であると言える。廣川氏は著述の劈頭に当たり、ソクラテス以前の思想家たちの事績に関する最も熱心な蒐集家であったアリストテレスが、彼らの思惟の形態を「哲学」として定義する代わりに「自然学」の範疇へ組み入れたという歴史的事実への注意を読者に促している。それは翻せば、ソクラテスプラトンアリストテレスへと繋がる思想的系譜を「哲学」の正統として荘厳し、ソクラテス以前の賢者たちの知的遺産を「自然学」(physics)に留まる旧態依然の伝統として貶下する密かな意図を、アリストテレスの裡に読み取ることと同義であるように思われる。ソクラテス以前の哲学者たちを専ら「自然学者」として位置付け、その知的な関心が「生成界」における諸々の運動や現象に限って注がれていたと看做すアリストテレスの論調は必然的に、厳密な「実在」に関する「形而上学」(metaphysics)の優等を含意している。少なくともプラトンの「哲学」は明瞭に「生成」に対する「実在」の優越を宣言し、感性的な認識の価値を低く見積もる姿勢を決して革めようとはしていない。

 本書における廣川氏の探究の方針は、ソクラテス以前の哲学者たちの業績に関して、アリストテレス的な見解に基づいて捨象されてしまった側面を可能な限り浮かび上がらせ、救済することを主要な目的の一つに挙げている。不完全な哲学者として処遇された古代の思想家たちの教説を、真筆の断簡や間接的な言及から抽出し、論理的な想像力を以て補うことで復元しようとする貴重な企てが、日本語の著述として纏められ、流通していることは奇蹟にも等しい。プラトンアリストテレスの遺した著述の読解に際して、ソクラテス以前の哲学者たちの思想的系譜に関する知識を参照することが、理解度の向上に貢献するであろうことは確実である。先賢の思惟と批判的に向き合い、その成果と難点を解剖し、自己の独創性を発揮する余地を発見することは、あらゆる知性的探究の辿るべき普遍的な道程である。ピュタゴラスヘラクレイトスパルメニデスが如何なる思想を構築し、展開していたのかを学ぶことは、言い換えれば生前のプラトンが直面していた往古の風景を幻想的な仕方で追体験することに似ている。如何なる賢者であろうとも、生身の人間である限りは、最初から壮麗な知識の体系を備えた状態で地上に生を享けた訳ではないし、赤児の段階で難解な哲学用語を自在に駆使していた訳でもない。一つ一つの言葉、知識を拾い集め、それを自己の内部で錬磨し調整して、少しずつ知的な版図の拡張を推し進める地道な日々の累積があった筈なのだ。

 何かを学んだり知ったりする過程は、地図の範囲を広げ、その精度を高めることに似ている。あらゆる認識は相互に結び付き、多様な「接続」の関係を持っている。考える力を高めるということは、そのような関係の本数を増やし、認識的な関係の総体が及ぶ範囲を拡張することと同義である。プラトンしか知らない者より、ソクラテスアリストテレスと共にプラトンを知る者の方が一層賢明で、奥行きのある思惟の力を得られるだろう。無論、単なる博学、雑多な知識の寄せ集めのような頭脳の持ち主になることを奨励している訳ではない。重要なのは、夥しい知識を様々な方法で関係化する能力を鍛えることだ。

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)