サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 2 エピクロス先生の静謐な御意見(一)

 先般「サラダ坊主の幸福論」と銘打って見切り発車で始めた続き物の企画であるが、端的に言って「幸福」とは実に多義的な概念である。それをどのような角度から、どのような趣旨で捉えようと考えているのかによって、当然のことながら「幸福」という言葉の定義の性質は変わってくる。

 だが、そういう「見地の違い」も含めて多様な見解を徴することが、この企画の充実には欠かせないプロセスであると思われるから、最初から厳密な抽象的要件の確定に就いて曖昧な私的議論を積み重ねることは遠慮して、結果は扨措き、先賢の遺した貴重な訓誡の言葉を咬み締めるところから始めたいと思う。

 先ず取り上げるのは紀元前四世紀から三世紀にかけて、古代ギリシアで活躍した哲学者エピクロスである。その哲学的業績は、デモクリトス機械的な原子論にラテン語で「クリナメン」(clinamen)と呼ばれる「偏差」の概念を導入した点で特筆されるが、当時の哲学者は皆、自然学から倫理学まで広範な分野に関する思索を展開しており、エピクロスもその例外ではない。彼の厖大な著述は今日、悉く散佚して、他者による言及も含めて現存する資料は極めて僅少であり、岩波文庫に収められた総ての断簡の翻訳でさえ、脚注の部分を除けば概ね一五〇頁ほどの分量しか発見されていない。古代ローマの詩人ルクレーティウスが著した「物の本質について」という表題の韻文が、エピクロスの思想の総体を現代に伝承する稀有の文献として珍重されている。

 プラトンアリストテレスの著述は例外的に夥しい分量が保存され、後世に伝えられているが、エピクロスのように、その著述の過半が滅失している古代の思想家は枚挙に遑がない。ソクラテス以前の哲学者に関しては、その殆どが現存する些少の断片だけを頼りに研究されているのが実情である。従って二千年以上も昔に物故したエピクロスの思想を完全に復元することには物理的な限界が課せられていると言わざるを得ない。とはいえ、今回の「幸福論」の記事を通じて私が取り扱いたいと考えている主題はそもそも倫理的な分野に局限されているので、必ずしもエピクロスの思想が全面的に解明されている必要はない。私はエピクロスの思想の総体を把握し、究明するという壮大な碩学的野望に駆り立てられている訳ではなく、飽く迄も往古の智者が「幸福」という主題に就いて如何なる知見を述べているのかを確かめ、それを分析して自らの血肉と成したいと慎み深く志しているに過ぎないのである。

 現存する総ての断簡を集めて日本語に訳出した『エピクロス――教説と手紙』(岩波文庫)に基づいて、エピクロス先生の倫理学的な見識を学び、その遺訓を綿密に調べて何らかの有益な知見を引き出すことが本稿の狙いである。別けても、主として倫理学的な問題が重点的に扱われている「メノイケウス宛の手紙」からの引用が、此度の論究の枢要を成すものと思われる。

 人はだれでも、まだ若いからといって、知恵の愛求(哲学の研究)を延び延びにしてはならず、また、年取ったからといって、知恵の愛求に倦むことがあってはならない。なぜなら、なにびとも、霊魂の健康を得るためには、早すぎるも遅すぎるもないからである。まだ知恵を愛求する時期ではないだの、もうその時期が過ぎ去っているだのという人は、あたかも、幸福を得るのに、まだ時期が来ていないだの、もはや時期ではないだのという人と同様である。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.65)

 この文章は、エピクロス先生が弟子のメノイケウスに宛てて書いた私信であると考えられている。この冒頭の一節は弟子に対して、哲学的探究における基本的な心構えを説いたものである。先生は筋金入りの哲学者であり、知性的な人物であるから、当然のように「知恵の愛求」即ち「哲学」(philosophy)の探究の重要性に就いて真っ先に語っている。ここで着目すべき要点は「霊魂の健康」という表現だろう。エピクロス先生は「哲学の研究」を、直ちに「霊魂の健康」の確保という明瞭に倫理的な課題へ結び付けている。同時に「知恵の愛求」は「幸福の獲得」と類推的な仕方で相互に接続されている。「哲学の研究」と「霊魂の健康」と「幸福」は何れも共通の価値を指し示す概念として、一つの親密な関係を形作っているのである。

 それゆえ、若いものも、年老いているものも、ともに、知恵を愛求せねばならない。年老いたものは、老いてもなお、過去を感謝することによって、善いことどもに恵まれて若々しくいられるように、若いものはまた、未来を恐れないことによって、若くてしかも同時に老年の心境にいられるように。そこで、われわれは、幸福をもたらすものどもに思いを致さねばならない。幸福が得られていれば、われわれはすべてを所有しているのだし、幸福が欠けているなら、それを所有するために、われわれは全力を尽すのだから。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.65)

 エピクロス先生の学説は、知性的な探究と精神的な幸福とを緊密に連動させた状態で捉えている。その幸福論は極めて主知主義的な性質を備えており、こうした特質は先生のみならず、アテナイの賢者プラトンの遺した夥しい対話篇の裡にも認められる、古代ギリシアの思想的伝統であるように見受けられる。ミレトスの賢者タレスに発祥すると伝承される古代ギリシアの旺盛な「思惟」の系譜は常に、自然学的な探究と倫理学的な探究とを一体的に捉え、運用している。何かを知ること、事物の本性を見究めること、正しい認識に到達することは、古代ギリシア的な幸福論の要諦を成しているのである。正しい知性を持ち、事物の認識に関して謬見を回避することは「霊魂の健康」の増進に寄与する。そして「霊魂の健康」を確保し維持することは即ち「幸福」の把持を意味する。つまり「哲学の研究」は単なる抽象的で観念的な遊戯ではなく、我々の日々の生活から遊離した無益な空理空論でもないのである。