サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 4 エピクロス先生の静謐な御意見(三)

 引き続き、古代ギリシアの偉大なる賢者エピクロス先生の学説の検討に取り組む。

 だが、多くの人々は、死を、あるときは、もろもろの悪いもののうちの最大なものとして忌避し、あるときはまた、この生における〈もろもろの悪いもの〉からの休息として〈むなしく願っている。しかし、知者は、生を逃れようとすることもなく、〉生のなくなることを恐れもしない、なぜなら、かれ(知者)にとっては、生は何らの煩らいともならず、また、生のなくなることが、何か悪いものであると思われてもいないからである。あたかも、食事に、いたずらにただ、量の多いのを選ばず、口にいれて最も快いものを選ぶように、知者は、時間についても、最も長いことを楽しむのではなく、最も快い時間を楽しむのである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.68)

 遼遠たる紀元前のギリシアに生きたエピクロス先生の文章は、数多の学究による綿密な考証の成果でもあろうが、決して難解でも晦渋でもなく、その文意を汲み取ることは市井の庶民である私にとっても必ずしも不可能な作業ではない。先生の論理は煩雑で入り組んだ厄介な迷宮のような構造とは無縁である。しかし、その文章の読解が相対的に容易であるという事実は、その文章を通じて示された学説を日々の生活の裡で実践することの容易さを聊かも含意しない。理窟を述べることよりも、それを実践に移して具体的な行動の裡に体現してみせることの方が遥かに困難で崇高な営為であることは論を俟たない。上記の引用に示された先生の「生死」に関する率直で簡明な見解は、余りにも単純で明瞭であるがゆえに、却って我々読者に難しい要求を匕首のように突き付けているように思われる。先生は「生死」の境界線を重視せず、生命に恋着したり、滅亡を極度に恐懼したりする世俗の一般的な慣習を事もなげに否定して、そのような迷蒙が無益であることに凡百の衆生の意識を向けさせようと努めておられる。

 エピクロス先生は、生命に恋着して極度に死と滅亡を懼れる通俗的な感情を、生物学的な迷信として斥けているが、同時に「死」を苦しい「生」からの解放或いは救済として特別に珍重する彼岸主義的な考え方にも難詰の言論を寄せている。「彼岸主義」とは要するに有限なる生者たちの暮らす「此岸」において幸福を求めるのではなく、死後の世界としての「彼岸」(その名称は「天国」でも「極楽浄土」でも何でも構わない)に往生することで絶対的な幸福を勝ち得ようとする考え方のことで、こうした救済の論理は洋の東西を問わず、様々な宗教的体系の裡に見出される普遍的な学説である。古代ギリシアにおいても、例えばオルペウス教やピュタゴラスの教団、プラトンの対話篇(「パイドン」)にも、こうした救済の方式に対する信仰が根付いている。けれども、そのような感覚的実証に堪え得ない学説に関して絶えざる反証の可能性を除外しないエピクロス先生は、死後における特別な救済に縋ろうとは考えず、寧ろそのような「最後の審判」(Last Judgement)への期待や希望の価値を否認しておられる。先生は「神」という超越的な観念を否定していないが、両者の間に現実的な相関性を読み取ることに就いては頗る消極的で禁欲的である。

 幸福論に関する考え方には、このように「彼岸主義」と「此岸主義」の二つの系譜或いは範疇に大別することが可能である。エピクロス先生の立場は専ら「死」の特権的な意義を否定しておられるので、明らかに「此岸主義」の側に属するものと看做すことが出来る。此岸主義の派閥に属する賢者は「生」に関しても「死」に関しても大仰な迷信の類を嫌悪し、不明な事柄に就いては慎重に「無記」のラベリングを施すのが通例である。

 若いものには、美しく生きるように、また、年老いたものには、美しく生を終えるように、と説き勧める人は、ばかげている。なぜなら、生きるということがそれ自体好ましいものだからであるばかりでなく、美しく生きる習練と美しく死ぬ習練とは、ひっきょう、同じものだからである。だが、はるかに悪いのは、こう言う人である、すなわち、生まれないのが善いのだ、「だが、生まれたからにはできるだけ速やかにハデスの門をくぐること」と言う人である。というのは、もし確信してこう主張しているのなら、かれはなぜさっさと、この生から去ってゆかないのか。かたく心をきめさえすれば、こんなことはかれにはすぐにもできることなのだから、だが、たわむれに言っているのなら、そんな言葉を受け付けない人々のあいだでは、かれは愚にもつかないものである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 pp68-69)

 この一節は所謂「反出生主義」(Antinatalism)を含む過激な彼岸主義的学説への批難及び揶揄として受け取ることが出来る。「生」を苦痛や堕落と等号で結び、肉体に囚われた「生」の実相を「悪」と同一視する厭世的な思想は、日本の浄土宗における「厭離穢土、欣求浄土」の標語に集約的な形で示されていると言えるだろう。エピクロス先生は極めて鮮明な口吻で、そのような彼岸主義の信仰を批判している。「生きるということがそれ自体好ましいもの」という記述は、先生の穏健な此岸主義的立場を如実に表している。

 また、未来のことはわれわれのものではないが、さればとて、全くわれわれのものでないのでもない、ということも記憶しておかねばならない、というのは、未来のことについては、われわれは、それがきっと来るであろうと、全き期待をかけることもしないし、また、全く来ないであろうと、望みを棄てることもしないからである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.69)

 幾ら考えても確定的な結論を下すことが出来ない事柄に就いて、何らかの明瞭な答案を得たいと望む性急な心情が、我々の内なる多様な迷信を培養し、増殖させる。実証し得ない事柄に就いては一義的な結論を保留し、所謂「無記」の範疇に登録しておくこと、これは単に倫理学のみならず、自然学の分野にも通じるエピクロス先生の基礎的な信条の一つである。「今生において幸福であること」が重要な問題である限り、様々な迷信を棄却することは実に合理的な判断であると言える。先生は神秘的な宗教家ではなく、倫理的な医家なのである。