サラダ坊主日記

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「美徳/幸福」を巡る、華麗なる論争 ロレンツォ・ヴァッラ「快楽について」 3

 十五世紀イタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラの著した対話篇『快楽について』(岩波文庫)を読了したので感想文を認める。

 この対話篇の前半は、エピクロスの思想を信奉する登場人物ヴェージョによるストア学派の教説に対する論駁に充てられている。しかし、著者ヴァッラの最終的な意図はエピクロスの称揚に存するのではなく、古代ギリシアに端を発する二つの有力な哲学的潮流、即ち「エピクロス主義」(epicureanism)及び「ストア主義」(stoicism)の双方を、キリスト教擁護の観点に立脚して批判し、その思想的限界を告示することの裡に据えられている。

 本書全三巻によって明らかにされるのは真の善と偽りの善という問題であるが、この問題を論じるにあたってとくに適切と思われるのは、善はただ二種類あるだけと考えてこの区分に従うことである。すなわち、現世の善と来世の善である。
 われわれはこの二つのどちらをもかならず論じなければならないけれど、第一の善から第二の善へ、階段を昇るように昇っていかなければならない。なぜなら、われわれの弁論はすべて第二の善をめざしているからである。それをわれわれは、古代の伝統にしたがって二つのもの、つまり宗教と徳によって達成する。(『快楽について』岩波文庫 p.15)

 要するにヴァッラは「善」の定義に就いて最も重要で本質的な区分は「現世/来世」の差異に基づいていると述べている。こうした見地から眺めるならば、古代ギリシアに発祥するepicureanism及びstoicismの思想は、共通する構造的限界を備えていると解釈されるだろう。これらの思想は原則として死後の世界や来世といった観念を認めていない。また、霊魂の肉体に対する独立性も認めていない。感覚的な快楽の善用を主張するepicureanismは固より、あらゆる情念や欲望の棄却を正当化した禁欲的なstoicismでさえ、その忍苦の習慣を「死後の幸福」という崇高な理念で装飾しようとは考えなかった。彼らの議論は専ら唯物論的な現実における生を扱っており、彼らの提唱する徳目は総て現世的な幸福の実現に捧げられている。それゆえに両者の思想、一纏めに「哲学」と呼称される思想的伝統は、キリストへの熱烈な信仰を護持するヴァッラによって異教的な学説として排撃されたのである。
 古代ギリシアの豊饒な哲学的伝統に対するヴァッラの不満は、「ヘレニズム」(Hellenism)における唯物論的発想に向けられている。感性的現実とは異なる超越的次元を想定せずに語られるepicureanism及びstoicismの「最高善」に関する議論は、ヴァッラの立脚するキリスト教、即ち「ヘブライズム」(Hebraism)の見地から眺めるならば余りに世俗的で享楽的、或いは相対主義的である。別の言葉を用いるならば「理性/信仰の対立」として整理されるであろう両者の根深い確執或いは相剋は、西洋の思想的伝統を形成する二つの重要な土壌として数千年間機能し続けてきた。「理性/信仰」の融合と背反の反復が、様々な論争を惹起し、革新的な学説を培養し、社会の発展に多大な貢献を蓄積したのである。
 学閥を問わず、理性や言語の力を最も重んじて世界の解釈に励んできたHellenismの伝統は、神と来世への信仰を重んじるHebraismの伝統に対立する。そもそも、古代ギリシアにおける哲学的探究が、神話的な世界観の罷り通る現実に逆らって萌芽したイオニアの自然哲学に淵源を有することを鑑みれば、その唯物論的な思想の発展は当然の帰結であると考えられる。そして初期のキリスト教会が、自らの信仰の正当性を証明し防衛する為に、異教の哲学者に倣って緻密な神学の論理を営々と構築したことも事実である。つまり、両者の関係性は単純な対立や相剋には還元し得ない、複雑で屈折した構造を孕んでいるのである。
 こうした構図を踏まえて本書の構成や原理を捉え直せば、著者ヴァッラの立場がHebraismの鮮明な擁護という方針を踏まえており、彼の称揚する「快楽」がepicureanismのように唯物論的性質を備えたものではないことは容易に看取される。ヴェージョによる熱烈なエピクロス讃美の文章を創造しておきながらも、ヴァッラの主張は一貫して、現世的で地上的な快楽に対する懐疑と懸念を議論の中核に据えているのである。彼は天上の永遠的快楽に関する燦然たる幻想を、壮麗な修辞の力を駆使して展開してみせる。それは明らかに「論証」ではなく「信仰告白」であり、それが厳密な事実であることを立証する現実的手段は存在しない。数千年に亘って地道に築き上げられた精密な神学的議論は、Hellenismの伝統に列する「論証」の技法を存分に駆使しているが、それらの煩瑣で緻密な論証が「信仰」というアプリオリな公理に基礎を置いていることは動かし難い事実である。
 尤も、所謂Hellenismの伝統が如何なる秘教的な信仰とも無関係であると断定することは短慮の謗りを免かれないだろう。例えばアテナイの哲学者プラトンの著した数多の対話篇は、極めて緻密な論証を積み重ねる一方で、霊魂の不滅と肉体からの独立という所謂「霊肉二元論」(substance dualism)に基づいた世界観を開陳している。ピュタゴラスの学説から深甚な影響を蒙ったと伝えられるプラトンは、霊魂の不滅と転生を論じ、感性的現実を相対的仮象と看做して排斥し、純然たる理性的認識を通じた「真理」の究明を、人生における最高善と定義している。こうした考え方が後代のキリスト教神学に及ぼした影響は極めて甚大で決定的なものではないかと思われる。言い換えれば、プラトンの学説は「理性/信仰」或いは「Hellenism/Hebraism」の調和的形態の先駆的で偉大な典型なのである。

快楽について (岩波文庫)

快楽について (岩波文庫)