サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「パイドン」に関する覚書 3

 引き続き、プラトンの『パイドン』(岩波文庫)に関する覚書を認めておきます。

 この対話篇における議論の主要な眼目は「霊魂の不滅」を証明することにあります。ソクラテスにおいては、哲学的探究は既成の価値観や信条の尤もらしい権威を解体し、いわば探究の無際限な運動の渦中へ連れ戻すことを目的としていました。従って彼は常に「無智」の自覚の裡に留まり続け、相手の無智を論難するのではなく、共に無智の渦中へ佇んで協同で思索に取り組むことを重んじました。彼にとって哲学は「問うこと」の側にある営為であり、明瞭な確証を得て「答えること」は必ずしも重要な意義を担っていません。

 けれども弟子に当たるプラトンの思想的な独創性は、そのようなソクラテスの探究の規範を脱却することによって胚胎したと言えます。彼の野心は、ソクラテス的な「無智」の自覚に留まることを肯定しません。無論、彼の思想的な情熱がソクラテスへの私淑を通じて養われ、その刑死の衝撃に促されて独自の進化を遂げたことは確かな事実であろうと考えられます。「パイドン」における「霊魂の不滅」に関する綿密な論証もまた、ソクラテスの刑死という奇態な事件に対する執着と謎解きから派生した成果であると思われます。不当な判決であると知りながら、従容として毒を仰いだ師父の姿から、彼は「霊魂の不滅」を論証すべき必然性に迫られたのです。

 「それなら、浄化(カタルシス)とは、この議論の中で先ほど語られたように、魂を肉体からできるだけ切り離すこと、そして、魂を肉体のあらゆる部分から自分自身へととり集め、自分自身として凝集するように習慣づけること、そして、現在においても将来においても、足枷のごときものである肉体から解放されて、魂ができるだけ自分自身だけで単独に生きるように習慣づけることではなかろうか」(『パイドン岩波文庫 P37)

 プラトンにとって「哲学」という営為は、単なる社会的な対話を意味するものではなく、物事の純粋な本質を把握することに存しています。その探究に際して彼の思考が特異であると思われる点は、物事の純粋な本質を感性的な領域から切断し、不可知の超越性を賦与したことです。もっと単純化して言えば、彼は哲学的探究にとって「肉体」が深刻な障碍を齎す存在であることを強調したのです。

 「それでは、このことをもっとも純粋に成し遂げる人は、以下に述べるような人ではなかろうか。その人は、できるだけ思惟そのものによってそれぞれのものに向かい、思惟する働きの中に視覚を付け加えることもなく、他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもなく、純粋な思惟それ自体のみを用いて、存在するもののそれぞれについて純粋なそのもの自体のみを追究しようと努力する人である。その人は、できるだけ目や耳やいわば全肉体から解放されている人である。なぜなら、肉体は魂を惑わし、魂が肉体と交われば、肉体は魂が真理と知恵を獲得することを許さない、と考えるからである。シミアス、もしだれか真実在に到達する人があるとすれば、それはこの人ではないか」(『パイドン岩波文庫 P34)

 こうした記述は無論、理性的な探究の重要性を称揚し、強調するものです。けれども、現代に生きる我々の通念に徴すれば、これほど徹底的に理性と感性とを分断し、理性の純然たる使用に特権的な意義を賦与するのは、余りに偏向した態度ではないかと感じられるでしょう。プラトンは感覚の不透明な性質に就いて注意を促すことに留まらず、はっきりと断定的な口調で「肉体」が「真理」への到達を妨げる忌まわしい要素であることを警告しています。理性に不純物としての「肉体的感覚」を混入することは、真理への到達の不可能性を確定させる行為なのです。

 その結果、われわれは肉体のために真実を見ることができなくなるのだ。いや、本当にわれわれに明確に示されているところでは、もしもわれわれがそもそも何かを純粋に知ろうとするならば、肉体から離れて、魂そのものによって事柄そのものを見なければならない、ということである。その時にこそ、思うに、われわれが熱望しているもの、われわれがそれの求愛者であると自称しているもの、すなわち、知恵がわれわれのものになるだろう。その時とは、議論の示すところでは、われわれが死んだ時のことであって、生きている間は知恵はわれわれのものにならないのである。(『パイドン岩波文庫 P35-P36)

 プラトンにおける「魂」は、肉体的な領域に属するもの、つまり「感覚」のみならず「愛欲、欲望、恐怖、あらゆる種類の妄想、数々のたわ言」(P35)と峻別されたものです。従って、それは一般的な通念における「亡霊」のようなものとは全く異なります。生前の「怨念」に凝り固まった感情的な霊魂というものは、プラトニズムの図式においては存在を認められないのです。それはもっと抽象的で理性的な、いわば「論証」の塊のようなものです。プラトニックな「魂」は、感覚に依存した認識や思索とは無縁です。換言すれば、それは常に感覚的な仕方で取り扱うことの出来ない対象だけを認識するのです。

 このように考えるならば、当然のことながら「真実在」とは可感的な対象ではなく、抽象的な理性の働きを通じて把握されるものであるということになります。しかし、プラトンにおける「真実在」は決して理性によって構成された観念を指し示す術語ではありません。それは感覚によって捉えられないものの、明瞭に存在する事物の「本質」(ousia)のことです。理性によって把握される「ウーシア」が、感覚を通じて見出される具体的な個物とは異質な次元に実在しているという考え方は、少なくとも私の耳には不自然な論理であるように響きます。若しも人類の「ウーシア」が、例えば様々な個人の存在を類的に統括する一つの「範疇」のようなものであるならば、そのような抽象的観念として「ウーシア」を受け取ることは難しくありません。けれども、人類の「ウーシア」それ自体が、我々の感覚の及ばない領域に確かに実在していると言われても、それを直ちに知性的に嚥下することは容易な作業ではないでしょう。

 例えば「パイドン」において、ソクラテスは「等しさ」という概念を考察の例に挙げます。彼は「等しさそのもの」と「等しい事物」とを区別します。それ自体は、素朴な日常的区別に属する判断であると言えるでしょう。けれども彼は単に個物と観念とを区別しているのではなく、感覚的実体と抽象的理念とを弁別しているのでもありません。彼にとっては両者の何れも明らかな「実在」であり、単にその真贋を論じているのに過ぎないのです。彼は「等しさそのもの」が実在することを信じています。但し、それは我々の肉体的な感覚によっては捉えられないのです。この「等しさそのもの」が、あの有名な「イデア」(idea)です。理性を経由して把握されるイデアは、理性によって構成された抽象的な概念ではなく、触知し得ない「実在」であり、感覚に対して超越的な「実在」であると定義されているのです。そして「等しい事物」は「等しさそのもの」から、その本質を分有していると看做されます。「等しい事物」から、作業的な論理として「等しさ」という観念が便宜的に抽出されるのではありません。寧ろ「等しさ」の存在は「等しい事物」に先行しているのです。

 感覚から理性が派生するのではなく、あらゆる感覚に先行して理性が存在するという理路、これがプラトニズムの本領を構成する要諦です。そして、こうした考え方が「造物主」と「被造物」という宗教的な構図との間に極めて親密な相関性を形成するであろうことは明白です。あらゆる事物は、超越的な実在としての「イデア」を分有することで作り出されます。従って、感覚的に捉え得る総ての実在は、自動的に「イデア」の不完全な転写の所産と看做されます。肉体的な死が、霊魂の解放であると同時に、理性の全面的な使用を意味するのは、感覚的認識という謬見の源泉が消失する為です。それが造物主たる「神」との合一を連想させるのは、当然の帰結であると言えるでしょう。

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)