サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

人間は誰も首尾一貫した理窟を生きていない。

 また思い浮かんだ漫然とした雑感の欠片のようなものを、静かに追い掛けて確かめていくような文章になるだろう。生きていれば、それが単調な日々であろうと激動の騒乱に満ちていようと、何かしら考えたり思い余ったりすることは自動的に浮かんでくるものであり、それらの曖昧模糊たる思念を曖昧なままに野垂れ死にさせないことが、案外重要な心掛けなのではないかと思う。印象的な事件やら節目の出来事ならば、時間が経ってもその核心的な部分に就いては鍛え抜かれた鮮明な記憶が維持されるものだが、不図頭の片隅を掠めるように思い浮かんだ些末な想念の萌芽は、直ぐに書き留めて保存して丁寧に培養していかなければ永久に消滅してしまう。しかし、その些末な想念の中には、重要な思想の礎石として役立つような事柄が含まれていることも多いのである。

 ただ漠然とした慣習や約束事に従って日々を遣り過ごすだけでは、捕まえることの難しい思考や感情の形態は幾らでも存在する。一度偶然に想到した思想のか弱い萌芽を、永遠に取り逃してしまうのは実に勿体ない話だ。そういった欠片のような思念を集めて、ゆっくりと温めて押し広げていく作業こそ、個人的な思索というものの本領ではないだろうか。それは抜群の知性に恵まれた有能な哲学者たちだけに独占的に委ねられるべき、特異な栄誉ではない。市井の平凡な庶民であっても、そうした作業に対して真摯に従事することには、限りない価値と可能性が備わっている。凡人であろうと英才であろうと、思索の努力には人間の精神を動物的な反復の原理から救済する大いなる可能性が賦与されているものなのだ。

 だが、考えることは誰にでも出来るが、その質的な水準に関しては、実に千差万別であると言わざるを得ない。如何なる訓練や教育も抜きにして、思索へ向かう努力が先天的に万人に備わっていると信じ込むのは聊か素朴に過ぎる考え方である。

 考えるうちにもっと現実の深淵へ踏み込んでいってしまうのが、人間の性というもので、それこそが考えることの醍醐味ではないかとも思う。何と言えばいいのか、人間は誰も首尾一貫した理窟に基づいて生きていない。自分の信念や理想に基づいて、自分で自分を完璧に統制し得ていると思えるほどのストイシズムが、地上に建設される可能性は皆無に等しい。

 自分の行動に対して自覚的であればあるほどに、人間は首尾一貫した理窟に従うことの不可能性を明瞭に痛感せざるを得ない。余り深く考えずに、凡庸で表層的な論理だけを携えて生きているとき、人間は己の正しさを全面的に確信することが出来る。だが、それは単なる偏狭な人格の表現に過ぎない。己の正しさを全面的に確信して疑いもしないとき、それゆえの他者への驕慢な攻撃性を少しも抛棄する必要を認めないとき、人間は自分自身の存在を一個の堅牢な秩序、隅々まで統制され、如何なる不可知も不如意も持たぬ存在として認識し、信仰している。だが、そんなものは虚妄でしかないのだ。人間の内部には、複数の相互に矛盾する論理が涼しい顔で同居し、共存共栄に余念がない。矛盾する思考や行動を呑み込んで平然と存在しているのが人間の普遍的な特性である。だから、筋の通らないことでも平気で口走ったり振舞ったりするのが人間の生き方としては自然であり、それを或る何らかの統整的理念に基づいて整理整頓し、規則を遵守させ、理窟に合わない行為や発想を省いて除去しようと企てることの方が、遙かに不自然な実存の形態なのである。

 だが、私は決して如何なる統整的理念にも従うべきではないという青臭い極論を吐こうとしているのではない。重要なのは、その統整的理念が常に人間の内部で複数に分裂しているという事実に直面し、それを安易な虚飾で糊塗してしまわないことだ。

 言い換えれば、私たちは複数形の「私」を異常な状態だと断定して、それらに何らかの病名を刻印しようとする社会の抑圧的な権力に騙されないように努めるべきである。複数形の「私」の間で繰り広げられる種々のコンフリクトを、何らかの治療されるべき症候として排撃してはならない。私たちは相互に矛盾する複数形の「私」の奇妙な集団であり、複合体(complex)である。それは少しも異常なことではなく、寧ろそれらの複数形の「私」を単一の価値観に基づいて厳格に統制し、一義的に支配しようと試みる全体主義的な抑圧の方が異常なのだ。それが私たちを無際限な不幸と、思考停止と、頽廃的な信仰の奈落へ果てしなく滑落させていく。その意味では「本当の自分」「真実の自分」を探し求める種々の努力は所詮、政治的な覇権の確立に向けた、不毛な内部抗争に類する児戯でしかない。否定され、処分された複数形の「私」たちは何処へ消えてしまうのか? 彼らは未来永劫、覇者への復讐を望まずに墓標の下で大人しく眠り続けるだろうか? 社会における政治的独裁の末路から類推すれば、そのような破局を有り得ないと断じることは出来ないと直ちに気付かずにはいられないだろう。