サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「平成」の終焉・新年のささやかな抱負・寛容と排斥)

*平成最後の正月が来た。四月一日に新しい元号が公表され、五月一日に新しい天皇陛下即位の礼が行われる。世の中には「平成最後の」という枕詞が濫れ返り、私自身も小売業の現場に身を置いているから、尻馬に便乗して「平成最後のクリスマス」などと叫んで呼び込みに活かした。テレビやネットでは「平成の三十年間」を回顧する番組や記事が囂しい。誰しも時代の大きな転換点が間近に迫ったような顔つきで、寒さの厳しい街路を行き交っている。

 元号など単なる社会的な約束事に過ぎないじゃないか、「平成」の取り外された後の空欄に如何なる文字が代入されようと、我々の日々の生活は何も変化しない、と言い張るのは容易である。節目など、そこにあると思えばあるし、ないと思えばない。全く以て人工的な符号に過ぎないと言えば、確かにその通りである。けれども、そんなものはフィクションに過ぎないと尤もらしい正論を大上段に振り翳したところで、少しも救済されないのが人間の心根というものではないだろうか。正論は切れ味が鋭く、それが乱れた麻を斬り裂いて秩序を呼び戻す光景には爽快な歓びがある。だが、正論ほど退屈なものは他に考えられない。人間はいつか死ぬ、という命題は頗る正論であろう。歴史と科学が、死の不可避性を立証している。だが、そんな当たり前の真実を声高に訴えたところで、我々の人生が致命的な変貌を遂げる見込みは乏しいし、そこから絢爛たる未来が切り拓かれる訳でもない。寧ろ「どうにかして死なずにいられないか」という滑稽な野心の方に人間は魅惑されるものではないか。無論、滑稽な野心だけを珍重するのも片手落ちで、世の中の他方には秋霜烈日の正義の光が降り注いでいなければならないと思う。その両義的な性質が大事なのだと、手垢に塗れた言葉を口ずさんでみる。

*私は最近専ら三島由紀夫に関する読書ノートばかりをブログに書いている。それはそれとして様々な発見があって面白い。何らかの個人的な計画を、誰の為にもならずに黙々と推進していることの手応えは、自分の生活の枢軸を定めるような効果を備えている。だが、今年はもう少し、訳の分からないテーマで、訳の分からない文章をもっと沢山書いていきたいとも思っている。もっと個人的で、曖昧で、結論の不明確な、思索の断片のような、つまり製品ではなく下拵えした原材料のような水準の文章を殖やしたいと思うのだ。

 例えば先ほど口走った「両義性」という言葉は、堅苦しい表現を用いれば「正義の複数性」という具合に置き換えられるだろう。こんな曖昧なテーマを暇に飽かして延々と考えてみるのも一興だろうと思う。そういう個人的な遊戯のような書き物に、ブログという形態は極めて馴染み易いのではないか。

 正義が複数であることを手放しに称讃するのは、普通に考えられているほど困難ではない。正義が複数的であること、こうした認識に基づいた相対主義の御旗を奉じることは、現代の世界では寧ろ凡庸な所作なのだ。一般論としての「正義の複数性」を論じることは、半ば社会的なオートメーションの対象である。誰でも自動的に「わたしとあなたの正義は互いに異なる」という言明を明示することが出来る。

 「わたしとあなたの正義は互いに異なる」という言明は、或る集団や組織を統括する立場の人間からすれば、鬱陶しく不真面目な教条に感じられるかも知れない。足並みを揃えて同じ方向へ歩くこと、或る信念を共有すること、それが重んじられる場所では、正義の複数性という考え方は目障りである。それは「足並みを揃える」という目的或いは手法に対する抵抗を含むからである。

 こうした「寛容と排斥」の実際的な問題は、滑らかな発音で表明される「両義性」という観念とは遠く隔たった場所で難解な蜷局を巻いている。あらゆる場所で、学校で、職場で、駅で、店舗で、路傍で、私たちは生温かい寛容と手厳しい排斥との間で揺れ動いている。身内、親密な人間に対して寛容に振舞うとき、私たちは或る微温的な自己満足の裡に佇んで快適に感じているだろう。自分が公明正大な人間であるかのように感じるかも知れない。けれど、それは当人の不寛容で排他的な性質の欠如を証明する根拠にはならない。私たちは総ての人類に対して宥和的で寛容であるべきだろうか? 正義が常に複数形であることを根拠として、私たちは絶えず他者に対して寛容な自分を堅持すべきだろうか? 厳密に考えれば、単一の正義を認めないという寛容の論理は、それ自体が、単一の正義を信奉する人々にとっては容認し難い暴力的な理念として映じるだろう。正義の複数性という崇高で美しい理念が、ただ存在するだけで、正義の単一性を奉じる人々の信念を包摂し得ないという問題は、そう簡単に解けはしない。

 矛盾を肯定しろという言明は、矛盾を忌み嫌う人々にとっては暴力的で野蛮な命令である。我々は矛盾を肯定することなど出来ず、ただそれを見凝めるだけである。その意味では、我々の存在は数多の矛盾を抱え込んでいるという退屈な正論だけが、生きることの支えになるのだろうか。或いは、矛盾こそ「魅惑」の源泉ではないだろうか。我々は矛盾に滑稽な魅惑を感じて手を叩いて満ち足りた猿のように笑う。誰かに恋するときも、我々は相手の表向きの性格と垣間見える秘められた側面との矛盾に眼を奪われる。人間的な魅力とは「矛盾」の異称ではないか? 最初から最後まで筋の通った究極のフェアネスは、最高に美しく、そして最高に退屈なのではないか? 私は正義を愛しながら悪事を働く。その矛盾に身動きが取れなくなるのも、人生の醍醐味であろうか?