サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(道徳・良識・保守)

*自分の感じたことや考えたことに固執するのは、偏屈ということだ。そして偏屈であったり強情であったりすることは、一般論としては世間から余り好意的な眼差しを向けられない生活の態度である。自分の考えや意見、信念、主張に固執して、他人の忠告や訓誡を素直に受け容れず、共同体の規範を蔑ろにして行動することは、反社会的なエゴイズムの表れとして排斥されるのが世の習いである。

 だが、既に存在する外在的な規範や約束事に適合するように自分の考えや意識を矯正し続ける殊勝な克己心が、常に人間として最高の理想的な生き方であると断じることには疑問符を突き付けたい。外部の規範を受け容れる、社会的な慣習を重んじる、いわば「無私」の境涯に達すること、それらの美徳を一概に何もかも否定しようとは思わないが、それが総てだと信じ込むのは危険な浅慮である。時代によって、土地によって、正しさの基準は幾らでも揺れ動き、多様化する。同じ国に住んでいても、百年前の道徳と二〇一八年の道徳との間には様々な相違点があり、昔は当たり前のように正しいと信じられていた行為が、今では言語道断の黴臭い旧弊として斥けられ、嘲笑されることも珍しくない。

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 先日、この記事を読んでいたら、昔の国会では飲酒が認められていたという文章に逢着して驚いた。現代では無論、禁じられているのだろうが、国家の大計を論ずる神聖な議場で、国民の代表者として貴顕の地位を授けられている代議士たちが、公務の最中に酒を呑んでも少しも咎められなかったというのは、現代の常識的な感覚に照らせば、驚愕すべき事態である。

 三島由紀夫の小説を読んでいて、登場人物が当たり前のように電車の中で莨を吹かしているのも、現代の社会的な常識にとっては論外の行動であろう。私が二十歳くらいのときは、駅のホームに囲われていない喫煙所があって、通勤ラッシュの時間帯には濛々たる煙が火災の如く辺りに立ち籠めていたものだが、今ではそんな風景を見ることは皆無である。

 何が道徳的であり、常識的であるかということは、時代と環境に応じて千変万化する。こういうことは理窟では誰しも弁えている積りでいるが、同調圧力というものは凄まじい。世間を支配する価値観の一般性に抗うことは、生半可な覚悟では難しい。だが、そうした慣習の本質的な相対性を疑おうともしない純朴な態度は、それがどんなに美しく見えても、私には承服し難い代物である。疑うことを知らないのは所詮、子供の美徳である。つまり、無力な美徳であり、脆弱な美徳である。それは時代の闇に立ち向かう果敢な精神を麻痺させる害毒である。換言すれば、総ての保守的な旧弊の温床なのだ。

 今日、道徳的であり、社会的な観点から善良であり美徳であると認められている様々な行為に就いて、その判断が未来永劫、普遍的な仕方で維持されると考えるのは謬見である。正しさは常に複数性を持ち、決して単一の規範に全面的に吸収されることはない。単一化された絶対的正義が、ファシズムという恐るべき災厄を生み出すということを、私たちは二十世紀の血腥い歴史的経験を通じて既に学び取っている。

 他人から投げ与えられた道徳を少しも疑わずに信頼し、その道徳的な格率に基づいて己の生涯を律することにも深刻な疑問を懐かない人間は、考えるという能力、人間に授けられた最も崇高な能力の一つを、極めて粗略に取り扱っている。何も疑わずに素朴に信じ込むことが正義であり、道徳的な態度であると考える人間の魂を覆っているのは、奴隷の感覚であり、良心の麻痺である。外在的な規範としての道徳に従うこと自体が悪なのではない。その規範の本質的な相対性を考慮に入れる習慣を持たないことが悪であり、怠慢なのだ。それは結局のところ、道徳という観念を他人の所有物として位置付けるような態度であり、道徳に対する完全な服従は、己に対する絶対的な免責を確立しようとする息苦しい社会的野心の反映に過ぎない。過度に道徳的であることは、エゴイズムと矛盾しない。過度に道徳的であること、つまり外在的な道徳に原理主義的な隷属を誓い、その規範の正当性を微塵も疑わない人間は、他者に対する不寛容という罪悪へ実に容易く傾斜してしまうものである。

 完全な道徳は存在しないし、無時間的な道徳も存在しない。つまり、世界の開闢以来、ずっと無限に正しくあり続ける規矩というものは存在しない。永遠に改正されることのない法律が、永遠に己の正しさを維持し得ると考えるべきではないように、「不変」の道徳が常に「普遍」の道徳であると信じ込むのは、根拠を欠いた妄想に類する見解である。永遠的な律法、無時間的な律法という形而上学的な妄念に己の魂を売り渡し、隷属させることが、人間として望ましい生き方であると考えるのは、人間の尊厳に対する犯罪的な毀損であり、冒瀆である。

 何が正しくて何が誤っているのか、それを考えて苦悩するところに人間の本質的な道徳性は存在する。換言すれば、既に正しさを認められた基準に寄り掛かることは少しも道徳的な態度ではない。それは単なる保守性の表現に過ぎない。既に正しさを認められた道徳的な規範を黙って受容し、己の実存的な肉体に刻み込むことは、優秀な社会的奴隷の証左であっても、それ以上の意義は持ち得ない。道徳的な戦いとは本来、旧習を墨守する人々への勇敢な挑戦と批判という形で演じられるべきものである。道徳とは古来の伝統を墨守することではなく、先人の叡智を神棚に祀って崇めることでもない。それは日々、新たに創造されるべき理念であり、動き続ける現実との懸命な接触を通じて絶えず革新されるものでなければならない。