サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「愛」と「理解」の相剋をめぐって

 人を正しく愛する為には(愛情に正しさという倫理的規範を求めるのならば、という仮定的な条件下において)、相手の考えや心情を精密に理解する為の努力を怠ってはならない、という尤もらしい命題が頻々と唱えられている。それは一見すると、疑いようのないくらい、輝ける正論だ。だが、それが人を愛するという作業の現場から眺められたときに、とても図々しい正論のように映じることも、一つの経験的な事実である。

 人を愛することは、相手のことを正しく理解することだ、という立論には、人間を透明な硝子玉の仲間のように思い込んでいる節がある。そういう偏見の虚飾が付き纏っている。だが、そもそも人を理解するとは、どういうことだろうか? 数式の問題を習い覚えるように、私たちは愛する人々の真実を正しく、適切な仕方で習い覚えることが可能だろうか? 数式はルールの束であり、いわば記号で編まれた壮麗で抽象的な六法全書である。だから、基本的には、その秩序や法則が揺らぐことはない。だが、人間は数式とは異なり、絶えず流動する諸行無常の存在である。況してや、人間の心ほど簡単に方向や性質を革めてしまうものは他に考えられない。絶えざる変異と転化の塊である人心を、正しく理解することが出来るだろうか? そもそも、相手を理解することと、相手を愛することとの間に、短絡的な相関性を見出すのは賢明な態度であろうか。

 敢えて言ってみる。愛することは、理解しないことなのだと、断言してみる。誰しも恋の始まりには、相手の未知な部分に惹かれ、その見知らぬ空白を埋めたいと願う。もっと知りたい、もっと近づいて見定めてみたいという欲望が、仄かな好意に油を注ぎ、燃え立たせる。愛の深まりは、理解の深まりであると言いたくなる気持ちは分かる。だが、愛情が極めて不合理な感情であることを、知らぬ者はいない。若しも愛することが相手の真実を理解することであり、その矛盾を解き明かすことであるならば、私たちは正しい答案だけを欲するだろう。過誤や失錯のない相手だけを愛することになるだろう。或いは、相手の理解し難い矛盾に当惑して、絶望に抱擁されるかも知れない。本当は、相手を理解することなど、愛情にとっては少しも必要ではない些事なのではないか。愛することが呑み込むことであり、相手の存在と生命を丸ごと肯定することであるならば、正しい理解など全く無用である。理解することが愛することの核心であるならば、私たちは理解し難いもの、理解の及ばないものを愛することなど出来ない。だが、理解し難いものを排除するような態度が、愛情の名に値するだろうか。理解し難いものであるから排除するというのならば、それは愛情ではなく、百歩譲っても「正義」の領分に属する方針である。

 愛情の深まりは、理解という或る意味では小賢しい態度を捨て去れるか否かに懸かっている。往々にして人が何かを理解したと宣言するとき、それは相手や対象を自分の手持ちの規矩に合わせて縮小しているに過ぎない。自分の物差しの中に相手を押し込めて、使い慣れたラベルを貼付して、既存の分類の何処かに当て嵌めているに過ぎない。それは結果として「無理解」を生み出す為の手続きでしかない。言い換えれば、愛情はそのような結果としての「無理解」を超越する為の唯一の可能な方途なのである。

 理解するという言葉には、行き届いた認識というニュアンスが含まれているが、そもそも何らかの対象を完璧に理解するなどということが、人間の頭脳に可能であるかどうか甚だ疑問である。完璧な理解という代物は概ね部分的であったり局所的であったりするのが常道で、或る部分に関して異様に明晰な理解を持ち得たとしても、物事は結局のところ「綜合的な全体性」として存在しているのだから、その明晰さは必ず他の認識との間に整合し難い深刻な亀裂のような矛盾を抱え込む羽目に陥るものだ。人間の心など、まさしくこの荷厄介な全体性の権化のようなものであり、相互に矛盾する感情が一つの人間の内面に共存して日常的に入れ替わることは、頗る有り触れた現象である。その部分的な要素を明快に理解したところで、その理解が直ちに全体へ及ぶことは考え難い。

 けれども、愛することは部分に執着することではない。単純な話、例えば相手の肉体は好きだが性格は嫌いであるというような場合、それを一括して「愛している」と呼べるだろうか。それは肉体への欲望に過ぎず、その人間を愛している訳ではないと、誰もが思うのではないか。そういう部分的要素へ相手の価値を還元するのは、愛することから最も隔たった振舞いであり、寧ろそのような「分類」こそ「理解」という行為の根幹に存する手続きなのである。理解する為には、相手を多様な部品に切り分けて捉えねばならないし、相手の構造や、その内在的な因果関係を解剖しなければならない。それは一つの知的な努力であり、そのような知性を持たずに真っ当な社会的生活を営むことは不可能であるが、少なくとも愛情の現場に、そのような知性が活躍する余地は乏しい。知性的であることは人間の優れた魅力であり美質の一つであるが、知性の刃を振り翳すことは愛情に対する邪悪な毀損である。