「愛情」に就いて
最も原始的な愛情の形態を、動物的な交接への欲望だとするならば、最も純化され高められた愛情の形態は、神々しい「無償の愛」或いは「無私の愛」である。無論、如何なる見返りも求めない愛情という崇高な理念が、宗教的な幻想の産物に過ぎないことは、経験的には確かな事実である。だが、それが如何なる場所にも存在し得ないと断定する為の充分な根拠を、少なくとも私個人は有していない。
無償の愛情は、分かり易く言い換えれば「見返りを求めない愛情」であると一般的に認識されている。愛するとき、何らかの報酬や利得を欲しているのならば、それは愛情ではなく、相手に対する執着であり、迂遠な方法で行われる間接的な支配でしかない。相手を支配しようと望むのは、相手から搾取し得る何かが現在の自分の実存を支える為に必要であるからだ。言い換えれば、支配することと依存することは、同じ事象の異なる側面に過ぎないのだ。相手を自分の言いなりにする必要が生じるのは、相手の存在によって自分が支えられている場合に限定されるのが世間の相場である。
愛する為には自立が必要であるという言い古された議論は、このような支配=依存の消息を鑑みれば直ちに承服することが出来る。無償の愛を相手に注ぐ為には、相手の存在に執着しなければならない諸条件を削除することが肝要である。相手の存在に依拠することで辛うじて支えられるような危うい「生」は、本当の意味で相手に愛情を注ぐ原資を持たない。自分の内部に欠けている何かを補填する為に他者の存在を求める態度は、時に劇しい愛情の形式を表面的には備えるものであり、その切迫した感傷的な情熱の力強さは、愛情の力強さの獰猛な表現であると看做される場合も少なくない。だが、それが謬見であることは、冷静に事態の構造を捉えてみれば直ちに了解し得ることである。足りないものを他者に求めるのは、一見すると当たり前の選択であるように感じられる。この高度に分業化された現代社会では、自分の持たないものを他人から拝借しようと試みることは少しも奇異な振舞いではないと考えられている。しかし、時代の状況や環境の条件に拘らず、他者への依存は不毛な頽廃への里程標である。決して孤立を尊ぶ訳ではない。寂寥に息苦しさを覚えることを非難する積りはない。それが自然な人間的感情であることは疑いを容れない。だが、自然な人間的感情の総てを野放図に走り回らせるのは、余り賢明な態度ではないと、明言しておくべきだろう。
どんなに綺麗事のように聞こえるとしても、物事の理想的な形態を想い描くことは、人間に許された崇高な権利である。眼前に繰り広げられる自分の個人的な愛情の形態が、極めて醜悪であったり奇怪であったりするからと言って、愛情に関する崇高な理念の数々を無意識に軽蔑するのは公正な態度ではないのだ。愛することは確かに、与えることであり、捧げることである。しかも、その贈与は見返りを得る為の功利的な手段ではない。言い換えれば、愛情は何らかの目的や利益に寄与する為の方法でも手段でもないのである。愛することは常に、与えることそれ自体の中で完結する、無目的な営みである。それは確かに相手の幸福を願うことであり、相手の存在を祝福する祈りであるが、愛することが直ちに幸福や祝福と結び付く訳ではない。如何なる切迫した祈祷も、愛する者に襲い掛かる悲劇的な不幸の数々を折伏し得るという絶対的な根拠とは無縁である。愛することは、相手の幸福に資することであるという。だが、私たちは日常的に「貴方のためを想って言っているのだ」という押し売りの愛情を経験している。相手の幸福を願うことが愛情であることは事実だが、極論を述べれば、相手の側には幸福である義務は課せられていないのである。幸福も不幸も、それを選び取るのは本人の主体的な決意であり、従って相手の幸福を望むことさえも、本当は恩着せがましい、僭越な圧迫なのだ。それは所謂「親心」に典型的な形で結晶している事実である。「子離れ」という言葉が存在するように、親の子に対する愛情は時に、愛情の仮面を被った依存的な現象として機能する場合がある。子供に対する執着は、容易に美化され得る社会的な徳目であるが、それさえも一歩間違えれば「支配=依存」の錯雑した絡繰に沈んでしまうのだ。
無償で愛すること、如何なる見返りも求めないこと、それは究極的には「他人から愛されることを欲しない」という非人間的な様相を呈することになる。言い換えれば、相手が自分を愛してくれるかどうかという問題は、視野の外部へ排除されることになる。それは殆ど宗教的な「聖性」の領域へ肉迫する事態であるが、そこまで辿り着くことが如何に困難であるかという端的な現実は、そのような理想的形態の価値を直ちに貶めるものではない。そのような形而上学的理想に意義を見出すのは馬鹿げていると嘯くシニックな現実主義者が、理想に溺れる聖人君子より人間として優等であるという保証は何処にも存在しない。所詮、人間は我執に塗れた存在に過ぎず、互いの生命を貪り合う醜悪なエゴイストの群れに過ぎないという乾燥した省察が、私たちの人生を力強く倫理的に高揚させるという理由も特に見当たらない。
愛することが求めることであるならば、確かに恋愛の現場では複数のエゴイズムが互いの肉を貪り、骨を削り合う残忍な響きしか聞こえないだろう。より多くの取り分を確保しようと策略を弄し、相手の実存を収奪し、自分の充足の為に奉仕させようとする態度が、如何に甘い言葉と媚態と誘惑で鎧われていようとも、愛情の崇高な肩書を拝借した、単なる貪婪な欲望の暴走に過ぎないことは明瞭である。自分の欲望を満たす為に他者の存在を利用しようと試みる総てのエゴイズムは、愛情の崇高な側面を黙殺している。愛することが与えることであり、捧げることであるならば、そして与えるという営為そのものに内在的な充足が備わっているのだとすれば、それは他者に対する如何なる種類の期待とも無縁である。他者に依存しないという根源的な方針の徹底、それは他者の固有性を、或る意味では等閑に付している。与えることだけに集中する愛情は、特定の他者に執着する理由を失っているからだ。それは逆説的な意味で、冷酷な態度であろうか? 神聖な愛情は、対象を選ばず、個人を特定しない。それは私たちが日頃、当たり前のように普段着の言葉で呼んでいる「愛情」とは随分と異質な手触りを有する感情の形式である。誰に対しても等しく注がれる愛情を、果たして私たちは歓ぶのだろうか? これは愛情という観念に関わる、最も重要で難解なディレンマ(dilemma)である。