サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

恋愛の無倫理性

 恋愛という極めて主観的な営為には、倫理という規範的な理念が存在しない。恋愛を道徳的な御題目によって縛ったり制限したりすることには意味がない。それは恋愛を殺戮する為に下される鉄鎚のようなものであり、恋愛の根源的な反社会性に対する掣肘である。言い換えれば、恋愛は無倫理的であることによって社会を脅やかす危険な害毒となり得るのである。それを様々な制度や道徳を通じて制御しようとするのは、社会的な公序良俗を壊乱しない為の措置であるが、如何なる外在的な制度も、人間の魂の領域に存在する不可視の活動を、完全に禁圧することは出来ないだろう。そのような禁圧の試みは過去に幾度も実行に移されてきたが、完璧な成功を収めた事例は皆無である。

 恋愛という極めて情緒的な現象は、人間が頭で考え出す様々な制度や絡繰を次々と破砕するように、人間の心を駆り立てて衝き動かす。禁じられた相手や対象を愛してしまうことは、誰にとっても避け難い事件のような形で、不意に襲い掛かるものだ。その感情が社会や共同体の掲げる規範に適合しない「罪悪」であったとしても、その感情が発生したという事実を禁じたり処罰したりすることは虚しい。感情は、人間の理性によって完全に制御し得る従順な飼い犬ではない。それは主人の思惑とは無関係に、或る自律的な動機に基づいて右往左往するものであるからだ。

 結婚が或る社会的な制度であり、様々な人間の頭脳を用いて整備されてきた、外在的な約束事の束である以上、その制度に参入する場合には然るべき理性的な振舞いが要求されるのは当然である。外在的な制度に参入することを自らの意思で選択したのであれば、その制度が要求する諸々の倫理的規則を遵守することは当然の話である。だが、私たちの社会は「恋愛」と「結婚」という異質な観念を滑らかに接合する近代的な「御伽噺」を信じ込むことを強いられている。「恋愛」と「結婚」との滑らかな接合、或いは「結婚」を「高度に洗練され、鍛え抜かれた恋愛の形態」として理念化する手続きは、私たちの暮らす社会の全体を覆っている。だが、それは厳密に考えるならば、困難な跳躍であり、狡猾な詐術なのである。感情という極めて危うい可塑的な事物を、結婚という社会的な建築物の礎石に用いることは、絶えず命懸けの崩落との戦いを呼び込むこととなる。頼りなく揺れ動く不安定な感情の上に、数十年間の継続に堪えることを求める堅牢な社会的規矩を積み上げることが、如何に剣呑な博打であるか、私たちは充分な検討を経ずに済ましていることが多い。その沈着な検討を踏まえずに、生涯の最期まで互いに添い遂げようと崇高な誓約を取り交わすこと自体、恋愛の情熱が齎した衝動的な営為なのであるが、その感情の渦中に置かれているとき、無味乾燥な疑念は、二人の決意を揺るがす邪悪な迷妄に過ぎないと、斥けられる場合が殆どである。未来の不安定な性質を殊更に論うことは、未来に対する勇気の欠如、或いは愛情の脆弱性の証拠として、否定的なニュアンスで受け止められることが多いのだ。

 恐らく結婚の本質は、愛情の有無ではなく、愛情の有無に拘らず「共に支え合うこと」に存している。愛情の強弱は、そもそも人間の感情が様々な要因に左右され得る繊弱な構造を有している以上、数十年の間に幾らでも変動するであろうことは容易に推測され得る。従って重要なのは「愛情の強弱に左右されない紐帯」を強固に建設することである。それが結婚における最大の、最も重要な倫理的規範であり、社会的使命である。感情に左右されない理性的な関係、或いは理性にまで高められた感情に依拠する関係性、それを構築することが「結婚」という難業に課せられた終極的な目標なのだ。

 その偉大と困難を思い知ることは、恋愛という浮薄な関係性に対する訣別を踏まえずには不可能である。その意味で、恋愛が若者の、或いは青春という不安定な季節の特権であることは端的な事実であろう。しかし、結婚という枠組みに囚われることを暫し閑却した上で、つまり法的な庇護や社会的な道徳などの錯雑した観念的体系を一旦棚上げした上で、純粋に「愛する」という営為の意義や構造を抽出してみたら、如何なる景色が広がるだろうか? 夫婦だから、恋人だから、或いは「結婚」と「恋愛」とは、そもそも異質な関係性だから、といった種々の言い訳や前置きを取り除いた上で、様々な形式を選択し得る「愛情」という倫理的な営為の意味を考えてみるとき、私たちの意識はもっと明晰な問題に逢着するのではないか。如何なる関係性に置かれていようとも、誰かを愛するという営みの中には、共通の、普遍的な基盤や法則が備わっている。子供を愛するのと、恋人を愛するのとでは、自ずから愛情の性質が異なるものだという至極尤もらしい言説には、要するに性愛の問題を弁別の基準に据えるべきだという認識が絡んでいる訳だが、果たしてそれは「愛情」の本質を穿つ重要な区分であろうか? 性愛が絡むかどうかという問題は、単なる動物的な性欲の問題であり、愛情が性欲との間に密接な関連性を取り結ぶ機会が多いことは確かに事実であるが、それを理由に愛情と性欲を一体的に混同して一向に怪しまないのは知的な怠慢であろう。

 愛することの倫理性を、結婚という社会的な伝統の決め事に依拠して考えるのは、或る意味では思考の抛棄であると言える。愛することに関連する諸般の問題は、単なる法律や道徳に還元されるべき事柄ではない。誰かを愛すること自体に、倫理など求めようがない。或いは、愛することを倫理的な問題として捉える教条主義が、愛することの根源的な創造性や豊饒さを毀損するかも知れない懸念を、安直に失念すべきではない。愛することは、倫理的な規矩に先行して存在する根源的な感情であり、倫理は自ずから正義や道徳といった共同体的な規範に関連し、附随することを強いられている。愛情は、倫理や道徳や正義や律法に先立って存在するがゆえに、社会に対して絶対的な優越性を常に保持している。愛することは時に、法律さえも転覆させる強靭な力を孕んでいるのだ。崇高で誠実な愛情の光の前に、黴の生えた蒼白い紙面の法典は無力であり、空虚である。そもそも法律でさえも、本来は誰かを愛するという人間の根源的な感情を母胎として産み出され、育まれたものである筈だ。従って、愛情を倫理的な規矩に基づいて断罪するのは本末転倒であり、もっと直截な言い方を選ぶなら、倒錯的な行為である。