サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「不義密通」に就いて

 江戸時代、日本では配偶者以外の人間と肉体的な関係を持つことを「密通」と称して、厳しく禁圧していた。独身の男女同士が関係を持つことさえ「密通」の定義に含まれていたのである。

 公共的な規律に基づいた「婚姻」以外の総ての性的関係を「不義密通」と看做して断罪する潔癖な道徳性は、時代の変化に伴って著しく緩和されてきた。独身の男女が性交渉へ赴くことは、現代においては明瞭に個人の自由と権利の範疇に属し、叱責や処罰とは無縁である。

 けれども、そもそも「恋愛」という観念自体が「結婚」の正統な公共性に対する抵抗の要素を含んでいるということを軽視すべきではない。自由な恋愛、公認された恋愛というものの矛盾した性質を看過すべきではない。つまり「恋愛」という営為の核心に埋め込まれた反社会的な含意を閑却してはならない。

 「恋愛」という言葉を聴いて、反社会性などという重苦しく攻撃的な観念を思い浮かべる人は限られているかも知れない。現代の社会において「恋愛」という精神的営為は原則的には明朗で肯定的な事象として捉えられ、位置付けられている。つまり、公共的に是認されているように見える。だが、それは現代の社会が「恋愛=結婚」という公理を導入していることの結果であって、必ずしも普遍的な思想であるとは言い難い。長い間、この国では「恋愛=結婚」の公理は一般的な規矩として認められていなかった。そもそも「結婚」という制度自体が本質的に、男女間の個人的で主観的な好悪の情などとは無関係に存立しているものであることを見落としてはならない。

 現代においては稀薄化しつつある定義であるとはいえ、歴史的に「結婚」という制度の機能的な核心は恐らく「生殖」という点に存している。配偶者を対象としない総ての性交渉を「密通」という背徳的な範疇に繰り入れる社会的な思想の根本には、そうした考え方が抜き難く横たわっている。種族の繁栄という観点から眺めれば、相互に愛し合う男女だけが周囲の祝福を享けて婚姻するべきであるという現代的な通念は極めて非効率である。感情などという曖昧で移ろい易いものを基準に据えて婚姻の可否を定めれば、夫婦の離合集散が著しくなることは眼に見えている。「皆婚社会」を成立させる為には、聊か逆説めいて聞こえるが、男女間の恋情などに重きを置いてはならないのである。生殖を目的とした婚姻の仕組みに、先ずは年頃の男女を捻じ込んでしまうことが肝要であって、両者の愛情や慈しみは後天的に育んでいけばいいと考えるのが、皆婚社会の基本的な理念なのだ。

 男女間の私的な好悪の情を「結婚」という制度に接続してしまえば、未婚率も離婚率も上昇するに決まっている。目紛しく変動する感情を基準に、数十年間の人生の行路を決定せねばならないという不可能な決断への気後れが未婚率の上昇や晩婚化を惹起し、結婚した後の感情の変動に抗いかねて、離婚を選択する夫婦が増加する。結婚の要諦が夫婦間の好悪の情に存するのであれば、配偶者に対する愛情を失ったときに離婚を選択するのは至極尤もな成り行きである。少なくともそこに論理的な矛盾は生じていない。「恋愛」を基礎に据えた結婚、換言すれば「結婚の恋愛化」という時代の趨勢は不可避的に離婚率の劇的な上昇を齎すのである。

 「結婚の恋愛化」が亢進すれば、相対的に「結婚」の有する社会的な権威は衰微していくだろう。「結婚=セックス」という厳格な戒律が緩和され、男女の自由な交情が容認されるようになれば、敢えて「結婚」という保守的で不自由な制度に固執する必然性も乏しくなっていく。

 同時にそうした趨勢は「恋愛」に関連する異様な情熱の衰弱を齎すだろう。「恋愛」の劇しい情熱は往々にして、それが「結婚」に対立する性質を備えていることに由来している。生殖を目的とした「結婚」の共同性と、好悪の情に基づいた「恋愛」の共同性との間には、本質的な懸隔が存在する。換言すれば「結婚」は生活の部類に属し、「恋愛」は遊戯の部類に属するのである。このように書くと「恋愛は遊戯に過ぎない」と侮蔑しているように聞こえるかも知れないが、それは私の本意ではない。「恋愛」の本質には、個人の思想や感情を尊重するヒューマニスティックな「自由」の信条が象嵌されている。個人主義の発達は「恋愛」の発達と同期している。けれども、個人主義の情熱は常に「個人と社会との相剋」という界面の摩擦を前提として燃え盛るものである。「不義密通」の適用される範囲と要件が緩和されるほどに、個人主義的な情熱は炎上の必要性を逓減させていく。換言すれば「恋愛」そのものが根源的な反社会性を帯びているのではない。「結婚」の絶対的な権威が信奉されていた時代と環境において「恋愛」が反社会的な役割と含意を担わずにはいられなかったと看做す方が一層精確であろう。同じく近代的な個人主義と足並みを揃えて登場した「小説」が極めて頻繁に「恋愛」を主題として取り上げてきたことも、単なる偶然ではないと私は思う。