サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

欲望と道徳

 一般論として、欲望と道徳との間には、相剋或いは乖離が存在していて、私たちの悩み多き動物的な心は、その隙間に片脚を奪われて動けずに悶えているものだ。道徳は共同体が円滑に回っていくように定められた規範であり約束事なのだが、何時の時代にも、誰の心にも、掟として樹立された道徳的な権威と圧力に馴染み難いものを嗅ぎ取る厄介な「真情」というものが潜在している。

 あらゆる欲望は道徳に対立するなどと大仰に断言してみせる積りもない。世の中には便利なことに「道徳そのものへの欲望」という奴が存在していて、定められた規律に完璧な服属を示してみせることに快感を覚える連中も少なくない。彼らは正しさを志向し、自らの正しさを社会的に承認されることに何物にも代え難い愉悦を見出す。大いに結構な話だ。正しい欲望だけを抱き締めて生きていけるのならば、こんなに安楽で素晴らしいことはない。社会が成立させた公共的な合意の中に己を全面的に投入して平気な顔をしていられるのならば、彼らは欲望と道徳との相剋などという古臭く青臭い御題目に頭を悩ます暇もなく、毎晩ぐっすりと枕を高くして眠れるだろう。大いに結構な話だ。

 だが、本当に人間は、社会の定める外在的な公共性と、己の内なる欲望を完全に合致させるという困難な離れ業を演じてみせることが出来るだろうか? 両者が徹頭徹尾、自然に辻褄が合うということが有り得るだろうか? 私はそうした道徳的幻想を信じない。そこにはファシズムの悪臭が漂っている。人間の抱懐する欲望や衝動が一から十まで社会的な正しさ、時代と環境によって変遷する相対的な正しさに合致するとしたら、それは驚嘆すべきストイシズムの成果か、或いは骨の髄まで染み渡った極端で純血の奴隷根性の賜物であろう。体制的なものの訓誡を何一つ疑わずに育ち、社会が正しいと認めるものだけを欲する合理的で奴隷的な欲望を成長させたインサイダーの怪物。

 他人の話に素直に耳を傾けることは確かに一面では美徳である。そうでなければ、私たちは他人の叡智を受け取ることが出来ない。だが、傾聴と隷属を混同する連中がいる。他人の話には無条件に従わねばならないと感じ、しかもそうした隷属の姿勢に正当な疑問さえ懐かない連中がいる。そうした筋金入りのインサイダーが、人間の目指すべき最終的な理想であると信じる気分にはなれない。正しさ、無数の正しさ、道徳と社会の提示する相対的な正しさを絶対化する盲目的な生き方に賛同しようとは思わない。

 大人になるということは、共同体の規範を内面化して優秀な奴隷と化すことだと看做す保守的な思想にも、何らかの効用を認めない訳ではない。実際、私は決して無秩序な世界を望む訳ではない。だが、秩序は他人から投げ与えられるものだろうか? 私たちは他人が定めた戒律の内側でしか生きられないのだろうか? 或いは、その戒律に叛こうとする心情は罪悪の根幹なのだろうか? そんな筈はない。外在的な規範を、つまり既存の道徳を少しも疑わずに暮らすなんて馬鹿げている。そもそも、そこには人間の尊厳が存在しない。

 尤も、一から十まで道徳的な規矩に則った欲望を懐ける人種など、決して多数派ではないだろう。唯々諾々と外部の規範に従う人間の卑しい性根を、優等生の美名で飾るのは欺瞞的な行ないだ。私たちの多くは、内なる欲望と、歴史的に形成された道徳的な規範との乖離に苦しんでいる。その苦悩を知らぬ者に道徳を語る資格はないし、欲望に就いて論じる権利もない。厳密には、その必要性が生じない。

 坂口安吾「人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」(「風と光と二十の私と」)と書いた。道徳的な規範に何もかも預け切って安逸を貪っている連中も、反社会的な悪徳の泥濘に沈み込んで御満悦の連中も等しく「けだもの」に過ぎないと言えるのだろう。相互に矛盾する問題の狭間で、彼是と報われぬ思索に日月を費やすのが人間の実存の標準的な形式である。「堕落論」で一世を風靡した坂口安吾は時に、社会的な規範への反抗を手段ではなく目的の位置に据えた厄介な落伍者であるかのように誤解されるが、彼は決して「堕落」を無際限に称揚したのではない。社会の規範を軽んじて淪落の暗闇を這い回ることに理想的な人生を発見した訳でもない。彼は道徳と欲望の亀裂に身を挺することの必然性を語っただけだ。道徳的な規範から外れることを「正しさ」の場所に配置して語るならば、それは単に別様の道徳を拵えただけの話で、問題は「数の論理」に還元されてしまう。既成の道徳への反抗を、もう一つの道徳として謳歌することの矛盾を、安吾は明瞭に知悉していたに違いない。重要なのは、道徳と欲望の狭間に落ち込んだ己の苦悩を凝視することだ。甘ったれた言い訳を、その苦悩の軽減の為に持ち込むべきではない。道徳も欲望も、それ自体は一つの事物に過ぎない。人間の尊厳は、両義性の中で演じられる軋轢と葛藤によって辛うじて支えられている。そこにしか、革新と進歩の種子は芽吹き得ないからだ。

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

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風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

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