Cahier(禁忌・罪悪・実存)
*この世界には、数え切れぬほど多くの「禁忌」が存在し、人間の心理と生活を縦横に縛っている。昨年の暮れから読んでいる三島由紀夫の「禁色」には、女を愛することの出来ない美青年の苦悩が描かれているが、例えば「同性愛」というものに対する社会的な禁圧の歴史と重みは、過去に無数の人間の魂を縊り殺してきただろうと思われる。
自分の内面と社会的な禁圧との対立、こうした問題は性愛に限らず、地上のあらゆる事物に浸透して、様々な苦悩や闘争を生み出してきた。その苦悩の深刻さは、或る対象に加えられる禁圧の劇しさに比例する。社会的に是認されないものを愛するとき、欲するとき、求めるとき、人間の内面には深刻な亀裂が走る。
社会的に定められた禁忌が、時代と共に変遷することは素朴な事実である。従って、禁忌の正しさを「相対的な正しさに過ぎない」と嘲弄することは容易い。少なくとも、歴史は禁忌の根本的な相対性を事実として明示している。だが、時代の価値観の渦中に置かれているとき、人間の内面が如何に強烈な制約を社会や共同体から課せられるものか、心当たりのない者は皆無であろう。社会の大多数が是認している正義や律法に反することは、劇しい罪悪感を生み出す。それに抵抗し続けることが齎す精神的な負担の大きさを、安価に見積もるのは賢明ではない。
禁忌は常に罪悪という観念と隣接している。禁忌による支配は、懲罰による支配であると同時に、懲罰を内面化することによる支配でもある。懲罰の予感には、禁じられた行為を慎ませる心理的な威力が備わっている。
一方で、人間には罪悪に対する欲望も存在している。禁忌を侵犯したいという欲望が備わっている。無論、それは誰にでも普遍的に装備されている欲望であるとは言えない。だが、多かれ少なかれ、禁忌に対する抵抗の欲望は、人間性の根源的な領域に埋め込まれているのだ。
正しくないものを愛すること、これは誰にでも起こり得る事態である。正しくないものを愛する感情は、懲罰の予感によって牽制されつつも、社会的な暗部への潜行を開始する。それは抑圧されながらも、内面の片隅に消え残り、熾火のように燃焼を続ける。社会に適応する為には、禁忌に抵触しないことが重要な条件となるが、社会的な適応だけで、人間の実存的な欠如が完全に充足される訳ではない。過剰に突き詰められた社会的適応への努力は往々にして、人心を深刻な荒廃へ追い込む。或いは、劇しい飢渇を惹起する。この飢渇は日頃、理性的な管制の下に鎮められているが、飢渇の存在そのものを否認することは、自己への暴力に他ならない。
恐らく三島由紀夫は、禁忌や罪悪といった主題に就いて、少なからぬ思索の蓄積を有していただろうと思う。彼ほど、社会的な価値と実存的な価値との間に生じた「亀裂」や「乖離」の意味を執拗に問い詰めた作家は珍しい。単なる露悪的な淪落は、彼の重んじる実存的な規矩に適合しなかった。露悪的な淪落ならば寧ろ、この世界には有り触れている。或いは、社会的価値と実存的価値の双方を、生半可な仕方で両立させる手合いも、巷間には夥しい(勿論、私自身も含めて)。だが、三島は社会的規範への驚嘆すべき従順さを保ちながらも、実存的な暗部(それは罪悪に対する欲望を秘めている)を肯定し続けた。それが単純で収まりのいい肯定でなかったのは論を俟たない。三島の特筆すべき魅力の源泉は、その引き裂かれた両義性の奥底に湧出しているのである。