サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

危うく揺らぐ「少年期」の断層 三島由紀夫「煙草」

 三島由紀夫の自選短篇集『真夏の死』(新潮文庫)の繙読に着手したので、先ず巻頭に収められている初期の短篇小説「煙草」に就いて感想を書き留めておきたいと思う。

 三島にとって「少年期」という時代は、聊か感傷的な、特別な価値を有しているように見える。無論、誰にとっても幼い頃の日々の記憶は、時に抒情的な郷愁の対象として、日常の暮らしの隙間へ俄かに眩しく浮かび上がってくるものだろう。あの頃に帰りたいと、少し退嬰的で甘美な妄想に浸る場合もあるだろう。

 人間の段階的な社会化の過程を「成熟」と呼ぶならば、三島由紀夫は終生、そのような「成熟」の積極的な価値に異議を唱え続けた人物であると言える。華々しい夭折の美学は、老境の円熟という素朴な理想的通念を嘲笑し、侮蔑する。彼は時間を閲し、経験を蓄えることで到達し得る「成熟」の境地に根本的な不信を懐いている。

 けれども、彼は臆病な少年の閉域に留まることを望んだ訳でもなかった。「成熟」の重要性を理解していない訳でもなかった。彼の生涯は、常に両極の間を揺れ動く振り子の運動に駆り立てられていた。彼が憧れたのは英雄的な名誉であり、栄光の渦中の死であった。滅ぶことによって時間を超越し、不朽の偶像と化すことへの欲望が、三島由紀夫という一個の精神を理解する上では、最も重要な秘鑰なのである。

 換言すれば、彼が恐懼し続けたのは「記憶の風化」であったのかも知れない。忘却されること、無意味な匿名の死者として地上を去ること、歴史の系譜に存在の痕跡を刻まれないこと、これらの事柄に纏わる不安が、彼の生涯を呪縛していた。凡庸な市井の生活、これほど三島的な美学の理念に背馳するものは他に考えられない。彼の小説に登場する人物は悉く、通俗的な日常の幸福を愛さず、堪え難い倦怠に苛まれた揚句、破滅的な行動へ自ら身を投じるのである。

 だが「煙草」に綴られた病弱な「私」の追憶は未だ、そのような危険なヒロイズムに対する純朴な恐懼を失っていない。彼は大人たちの世界に期待と憧憬と好奇心を覚えながら、恐る恐る手を伸ばしている。無論、彼は「少年期」の脆弱な性質を明瞭に認識している。それが未来永劫に続くものではないことを、少なくとも追憶する主体としての「私」は自覚している。大人になることへの不安と憧憬の複雑な混淆、それが所謂「少年期」と呼ばれる季節の基調を成す主題である。「子供」と「大人」との間に設けられた断層を超越すること、それが総ての少年に課せられた危険な使命なのだ。

 その夜眠れない床の中で、私はこの年齢で考えられる限りのことを考えた。誇り高い私はどこへ行った? 今まで私は自分以外のものでありたくないと頑なに希ったのではなかったか。今や私は自分以外のものであることを切に望みはじめたのではなかろうか。漠然と醜く感じていたものが、忽ち美しさへと変身するように思われた。子供であることをこれほど呪わしく感じたことはなかった。(「煙草」『真夏の死』新潮文庫  p.25)

 「煙草」という小道具が「大人」の世界の明快な象徴として用いられていることは論を俟たない。喫煙の不道徳な性質は、子供が大人の世界に侵入したという「罪悪」の表象である。だが、このような背徳的冒険を経由せずに、誰が幼子の蛹を脱ぎ捨てられるだろうか? 噎せ返りながら無理に煙草を吹かし、上級生である伊村に窘められる場面は、彼の冒険が哀れな失敗に帰結したことを含意している。それが「子供であることをこれほど呪わしく感じたことはなかった」という眠られぬ夜の感慨に通じていることは明白である。

 かくして大人になるということが私には一つの完成あるいは卒業だとは思えなかった。少年期は永劫につづくべきものであり、又現につづいているのではないだろうか。それだのに我々はどうしてそれを軽蔑したりすることができよう。(「煙草」『真夏の死』新潮文庫  p.9)

 「少年期」の悲劇的な性格は、つまり「幼年」と「成年」との致命的な断層を揺れ動く無限の彷徨は、三島の実存的な宿痾であったのかも知れない。彼は「成年」としての自己を確信することが出来なかった。何時までも自分が「断層」の裡に落ち込んでいるような気分を棄却し得なかった。「晦闇かいあんの嵐」(p.8)としての少年期を脱することは、彼の眼には不可能な難事として映じたのだろうか。「華々しい夭折」への絶えざる熱烈な憧憬は、言い換えれば「少年期は永劫につづくべきもの」という認識の齎す必然的帰結なのかも知れない。「成熟」或いは「老年」の峻拒は、三島の内面を呪縛する抗い難い実存的衝迫であったのだ。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)