サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

自己愛の小さな蹉跌 三島由紀夫「雨のなかの噴水」

 三島由紀夫の短篇小説「雨のなかの噴水」(『真夏の死』新潮文庫)に就いて書く。

 このささやかな掌編は、三島の遺した夥しい作品の中では傍流に属するものであると言える。少なくとも彼が、自らの実存的核心に関わる問題と四つに組み合って劇しい格闘を演じた作品の系譜に比べれば、この簡潔な素描のような物語には、濛々たる血煙が欠けていると言えるだろう。

 無論、それゆえに価値がないなどと驕慢な断言を試みる積りはない。芸術の価値を判定するという判事の作業は、その芸術の中身を精細に理解し堪能するエピキュリアンの振舞いに比べれば、遥かに空虚で瑣末な問題である。或る作品の評価というのは、綜合的な結論であり、複雑で多様な細部の感想を要約することで形成される。評価の内容は、評価を下す人間の個性に応じて異なるのが当たり前だ。本当に肝腎なのは、その作品の世界に深く溺れて、様々な感覚を味わい、嘆賞することであり、ラベリングの良し悪しを考えることではない。

 三島由紀夫の文業が、若年期におけるレイモン・ラディゲへの苛烈な傾倒に象徴されるように、フランス文学の精緻な心理学的解剖の伝統から、数多の養分を摂取して培われたものであることは明瞭な年譜的事実と看做して差し支えないだろう。人間の心理を精密に抉り出し、その複雑な相関の体系を明らかにし、入り組んだ誤解の縺れが生み出す残酷で虚無的な悲劇の推移を緻密に描き出していくこと、あらゆる事物と事件を、心理という意味の体系に還元する手続き、これらの要素は、三島の遺した作品を貫く要のいとである。

 「雨のなかの噴水」において造形される聊か滑稽な椿事は、悲劇と呼ぶには余りに矮小な事件だが、それが少年の魂に及ぼす真摯な影響の大きさは、少なくとも当事者にとっては致命的な衝撃を伴っている。少年の有する屈折した矜持の構造は、彼が明敏な自意識の持ち主であることを物語っていて、その繊弱で過敏な自尊心は、勿体振った色男の風格に憧れを寄せている。

 その一言を言っただけで、自分の力で、青空も罅割れてしまうだろう言葉。とてもそんなことは現実に起りえないと半ば諦めながら、それでも「いつかは」という夢を熱烈に繋いで来た言葉。弓から放たれた矢のように一直線に的をめがけて天翔あまがける、世界中でもっとも英雄的な、もっとも光り輝く言葉。人間のなかの人間、男のなかの男にだけ、口にすることをゆるされている秘符のような言葉。すなわち、

「別れよう!」(「雨のなかの噴水」『真夏の死』新潮文庫 pp.330-331)

 童貞の少年が性交に憧れ、未婚者が家庭の幸福に見果てぬ夢を描くように、少年と大人の境目に立った明男あきおは、冷酷な女誑しの境涯に過度の思い入れを懐いている。それは爪先立って背伸びする少年の虚栄であり、彼が自意識の絡繰に就いて明敏な考えと強固な関心を備えていることの証明でもある。言い換えれば、明男が囚われているのは尊大な自己愛であり、そこから強烈な快楽を抽出し得るということは、裏を返せば彼が「恋に恋する」愚かしい若気の渦中に埋もれていることの動かぬ証拠なのである。

 作者は別に、大袈裟な悪意を以て明男の虚栄を打ち砕こうと考えてはいないだろう。彼は少年期の掉尾を飾る不透明な心理の揺らぎを精細に照らし出し、その拙い虚栄の身振りに成熟した苦笑を捧げている。それは虚栄を批難する為の仕種ではなく、避け難い虚栄の快楽と、その客観的な滑稽味を静かに、丹念に小説の樹皮へ彫り込んでいるだけである。

「だって……それじゃあ、何だって泣いたんだ。おかしいじゃないか」

 少女はしばらく答えなかった。その濡れた小さな手は、なおも傘の柄にしっかりとりついていた。

「何となく涙が出ちゃったの。理由なんてないわ」(「雨のなかの噴水」『真夏の死』新潮文庫 p.342)

 自分の言動が相手に齎す心理的影響を厳密に測った上で、自己愛の要求する虚栄の愉楽を獲得しようと試みた明男の野心は、雅子の身も蓋もない感情的で無意識的な言い分に呆気なく突き崩されてしまう。砂糖菓子が壊れるような虚栄の愉楽の儚さは、心理的分析に長じた男の自尊心を優しく嘲っているように思われる。三島の文業の豊饒で多面的な性質は、この小さな佳品の出来栄えによっても、明確に立証されているのではないだろうか。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)