サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「顔」の見えない時代)

*最近、部下の男性社員が同棲していた年下の恋人と別れて、落ち込んでいる。尤も、私と同い年の男だから、子供みたいに陰鬱な雰囲気を職場で醸し出しているという訳ではない。仕事は仕事できちんと取り組んでいる。だが、茫漠たる寂寥や虚無の感情は如何ともし難いだろう。時間が最良の薬であることは言うまでもない。人間の記憶は、それほど耐用年数の長いものではない。大切な記憶を風化させる哀しみが存在することは事実だが、何もかも忘れられないのであれば、人間は未来へ向かって前進する力を失ってしまう。

 恋に落ちるということは、言い換えれば「その人がいないと生きていけないように現実を再構成する」という営為である。恋愛の熱病の症状が悪化すれば、四六時中、恋人のことを考えずにはいられなくなる。逢えない時間が重苦しい懲役のように感じられ、時間と空間を共有していないことが何かの間違いであるように思われる。共に過ごしている時間だけが本来の「正しい時間」であるように感じられ、それ以外の時間は総て副次的な、色褪せた虚無的な時間のように思われる。こうした執着が奇態な情熱であり、必ずしも健全な感情でないことは事実だが、こういう不毛な感情の暴走がなければ、人間の生活は随分と健全で、同時に果てしなく無味乾燥なものになるだろう。

 訣別は、恋人の存在を前提として組み立てられた世界の秩序を書き換える行為であり、かつて恋人の存在が占めていた領域の空白を他の要素で補填していく地道な作業である。時間が経ってしまえば、その空白には新しい恋人の笑顔が象嵌されるかも知れない。趣味や仕事や、その他の様々な事物が割り込んで来るかも知れない。けれども、埋まるまでの時間が途方もなく長く感じられる為に、このまま永遠に空白は埋められないのではないかという恐怖と絶望と悲観が殺到し、我々の前向きな希望を容易に挫いてしまう。

 去っていった恋人の後ろ姿を見凝めることを断念し、徐々に生活が平常に復したとしても、それはそれで、過去の幸福な季節が単なる紛い物に過ぎなかったのではないかという疑念を齎し、美化された過去が復旧した現在の索漠たる性質を浮き彫りにするという成行も、珍しいものではない。そうなると、現在の自分の健全な復旧が単なる美しい過去からの遁走に過ぎないのではないかという考えに拘束されることとなり、一層虚しさが募るようになる。こういう悪循環には、悪魔的な陰湿さが備わっている。

 だが、恋愛が個人的な感情の問題であり、そして人間の感情が極めて移ろい易い繊細な性質を孕んでいる事実を徴すれば、こうした離別の苦しみが不可避的なものであることは明瞭に看取される。恋に落ちることは常に危険な損害の懸念を含んだものであり、永遠を願うことは往々にして不可能な希求である。だが、誰が崩壊の予兆を織り込んで恋に落ちることが出来るだろう。眼前の幸福の遠くない破綻を絶えず意識しながら、恋に落ちるなどということが有り得ようか? 無論、未来のことは誰にも分からない。確実な未来、現在と同等の確実性を帯びた未来、そんなものは幻想の裡にしか存在しない。結婚すれば安心というものでもない。入籍の手続きは発走の号砲であり、確実な未来を証するものではない。

 原理的に言えば、恋愛という感情と無縁で生きること、それが最も賢明だという結論に至る。しかし、恋愛が常に離別の悲嘆、或いは感情の消滅に伴う虚無へ帰結するものだとしても、人間はそれを回避することが出来ない。無論、そうした感情に対する嫌悪は日に日に強まり、それが恋愛や結婚に無関心な人々を増産しつつあることも我々の時代の実相である。

 或る意味では、現代の社会的変化は「恋愛」という行為を純化している。蒸留して、不純物を取り除いていると言ってもいい。性慾ということに関して言えば、各種の風俗産業のみならず、インターネットの向こう側にはあらゆる性的嗜好を充足へ導く刺激的な情報が氾濫している。VRの技術が発展すれば、生身の女性と関係を持たずとも、それに匹敵する肉体的な感覚を味わうことが出来るだろう。或いは生活の問題。二十四時間、食料品を購入することが出来て、豊富な家電が煩雑な家事の負担を軽減する時代にあって、昭和の専業主婦が担っていた家政の業務は実質的に大きくアウトソーシングされている。性愛と家政、これらの要素が外部に委託し得るものであれば、子供を欲しない限り、恋愛や婚姻といった深淵に踏み込まなければならない不可避的な要素は消え去る。

 要約すれば「一人で生きること」が容易な時代になった訳だ。他人と協同しない限り、まともな生活が覚束ない時代であれば、誰もが恋愛や結婚に命を賭けただろう。けれども、他人との関わりが面倒であれば「関わらなくても済む」時代にあって、恋愛というのは酔狂な営為に変貌しつつある。実際、他人と関わることを好まない人間にとって、恋愛の煩雑な過程は鬱陶しいものでしかないだろう。相手の心理を絶えず解読し、適切な気遣いを行なうと共に、自分の要求も示して、変動し易い合意形成の過程に身を置き続けること。「一人で生きること」を選択すれば、そういう煩雑な業務から、少なくとも自身の私生活を遠ざけることは可能である。その涯に「孤独死」という暗鬱な終幕が待ち構えているとしても、どうせ人間、一人で生まれて一人で死ぬのだと嘯けば、とりあえず自分自身の内在的な不安に麻酔を打ち込むことは出来るかも知れない。

 だが、他人と関わる技術を錬磨する過程から身を退いてしまえば、やがて「一人でも生きられる」という認識は「一人でしか生きられない」という認識へ徐々に横滑りしていくことになるだろう。そもそも「一人でも生きられる」というのは狭隘な認識で、そうした生活の条件を成り立たせるのは高度に発達した「分業社会」であり、互いの顔が見えないだけで、寧ろ他者との相互的依存は益々深まりつつあるのだ。厳密に言えば、我々の生活は他者から遠ざけられているのではない。「他者の顔が見えない」という構造的な条件が増幅されているというだけの話である。「顔の見えない時代」を迎えたからと言って、他者と関わる技術や素養の価値が下落する訳ではない。世界的な格差社会の到来は寧ろ、他者と関わる技術、要約すれば「倫理」の重要性を高めているのである。身近な他者との間に倫理的関与を持つ能力さえ欠いた人間が、保護主義の蔓延する「分断の時代」を生き延びることは困難であろう。「公共性」という概念の意義が益々高まることは確実なのだ。共同体的な抑圧の原理からの脱却は、共同体を超越する公共性の原理の構築を明瞭に促している。