サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(A Man who has been dry, without compassion for others)

*自分はどういう人間なのか、それを客観的に査定し、評価し、把握することは容易ではない。自分で自分の感情や信条や、抑圧された無意識の想念を適切に解剖し、その構造を闡明するのは一朝一夕に為し遂げられる些事ではない。何処まで突き進んでも、人間の認識は畢竟、主観性の監獄を突破出来ないし、自分自身の言動を綜合的な視野の下に一望することは極めて困難である。
 だからこそ、自分の内なる漠然とした、曖昧模糊たる情動や思念を明確で理性的な言葉の列なりに置換する営為は地道に繰り返されなければならない。人間が文章を書くのは、単に他者との回路の開拓を求めているからに留まらない。自分自身の思考を整理し、首尾一貫した理路を与え、自分が本当は何を考えているのか、客観的な形象として構築しなければならない。自分のことは自分が一番よく分かっていると断言するには、相応の努力の蓄積と、沈着な勇気が必要である。
 最近、自分はどういう人間なのかという主題を巡って彼是と考える時間を持った。そして、自分自身で自覚している以上に、私という人間は、他者の感情や思考に「共感」 compassion する能力が薄弱なのではないか、他者に対する関心が極めて稀薄なのではないかと感じるようになった。無論、それは直ちに他者との関係性に致命的な障碍を抱えているという意味ではない。人並みに妻子を持ち、勤め先は小売業であるから、日々不特定多数の顧客と接するし、アルバイトの従業員を数多く雇用しているがゆえに、年齢や性別、社会的立場の多様な人々と日常的に意思の疎通を図りながら働いている。だから、他者とのコミュニケーションに特筆すべき困難を感じているという訳ではない。しかし、周りから言われること、特に最も身近な存在である妻から指摘されること、そして自分自身の過去の行跡を顧みて得られた認識などを考え合わせると、根本的な部分において、私は他者の存在に主要な関心を置いていないのではないかという有力な仮説に行き着いた。
 妻に言われて腑に落ちたのは、私という人間の日頃の振舞いを観察する限りでは、他人に自分を理解してもらいたい、承認してもらいたい、称讃してもらいたいという欲望が稀薄なのではないかという指摘である。無論、私だって他人から褒められたり讃えられたりすれば気分は良い。けれども、他人の称讃を得る為に行動するのは恥ずべきことだという考えが根本的に存在しているように思う。理解されたくないという訳ではないが、理解されないならされないで別に構わないという冷淡な断念のような感情が、胸底に息衝いているのである。そして、他人に理解されないとしても、自分が望む道筋であるならば、そのまま突き進めばいいと考えている。他人の意見にも耳を傾けることはあるが、他人の意見に著しく影響されることは滅多にない。具体的な誰かに憧憬や尊崇の念を懐くことも殆どない。自分は自分、他人は他人で、そう簡単に相互的な理解へ辿り着ける筈がないと思い込んでいる。つまり、自他の領域の線引きが明確なのである。
 自他の領域の線引きが明確であるということは、言い換えれば、他者への共感が稀薄だということだ。それゆえ、他人の懐いているであろう様々な感情に、想像的な仕方で共鳴するという経験に乏しい。そもそも、感情が波立つことを余り好まない性格である。情緒的な不安定さによって、冷静な判断力が狂うことを嫌っているのだ。他人の感情に引き摺られて、自分も同じ心理的状態へ移行することを、原則として望んでいない。寧ろ成る可く冷静に、適切な距離を確保して、相手の状態を観察し、対処の手順を考えることに重きを置く。他者の感情に、想像的な仕方で没入せず、根本において、自他の明確な境界線を維持しようと企てている。とはいえ、他人に極端な関心を寄せないということは、別に他者という存在全般を嫌悪しているという意味ではない。コミュニケーションに苦痛を覚える訳でもない。単に、共感という作法が不得手なだけだ。そして共感の機能に関して基礎的な欠落が存在する分、他者の言動を冷静に観察し、分析することには長けている。感情を交えずに、客観的な観察の対象として他者を遇することが出来るのである。
*何故、他人への関心が稀薄なのか。相対的に考えれば、その分だけ自分自身への関心が強いということだろう。内向的、或いは内省的な性格で、他人との共同的な一体感よりも、自分自身の独立性や主体性を重んじているのである。自分自身の課題に集中したいので、他者の問題に深入りしようとは考えないし、仮に深入りしたとしても、飽く迄も問題の当事者は本人であり、本人の力で解決すべきだという方針は揺るがない。忠告や支援はしても、最終的な決定は自分の関知すべき事柄ではないと考えている。相手の感情に同調する姿勢が稀薄で、飽く迄も自分の意見に固執するので、冷淡な人間だと思われ易い。共感によって繋がるのではなく、専ら会話や議論を通じて相互理解を深めることを好む。名状し難い感情というものは、共有し得ないものだと認識している。相手がどうして、そういう感情を懐いているのか、理智的な分析を実行することは出来る。しかし、相手の感情を自分自身の感情として感受することは稀である。何故なら、他人は他人であり、自分は自分であるからだ。それゆえ、他人の意見に影響され難いし、相手に自分の意見を認めてもらいたいと切実に熱望することもない。理解してもらえれば嬉しいが、理解されることが最終的な目標であるとは言えない。そうした特徴は、このブログに収められている数々の文章の性質を徴する限りでも明瞭であるように思われる。明らかに私は、何よりも先ず自分自身の為に文章を書いていて、読む人の都合や立場を余り考慮に入れていない。より多くの人々に読んでもらう為の工夫を凝らしていないし、読者を愉しませる為の仕掛けや調整も徹底的に怠っている。読んで理解してくれる人が顕れたら勿論光栄に思うし感謝もするが、だからと言って、その人との間に強固な紐帯を築こうとは思わないし、そもそも、本当に理解してもらえているかどうか、疑わしいと考えている。
*他者に共感しないということは、他者の感情に影響されず、支配されず、振り回されないということである。同じ感情を懐くことより、銘々の感情が相互に調和して、相手の感情を毀損しないことを望む。それぞれが自由に、自分らしく過ごしていればそれで構わない。無論、全体の利益の為に、それぞれが共通の規範に対して一定の隷属を受け容れることは大事である。少なくとも、その規範が理論的な合理性を有するのならば、個人の感情に関わらず、従属すべきである。しかし、感情的な一体感を強要される筋合いはない。全員が同一の感情を共有する必要も必然性も存在しない。感情がどうであれ、それぞれの行動が、全体の理念や指標との間に合理的な相関を保っているのならば、それで充分である。感情は他者によって強いられるものではなく、常に内発的なものであり、従って万人が同一の感情を保ち、同一の感情に拘束され続けるというのは、明らかに醜悪な状況である。共感は同質性を前提としており、従って共感の原理は、異質な他者を包摂する力を持たない。大体、人間の感情というのは非常に頼りない、浮薄な幻影である。永続する保証もないし、寧ろ頻繁な変容こそ感情の明瞭な特性である。それほど頼りないものを唯一の紐帯として、他者との間に継続的な関係を構築し、維持することは困難である。大半の恋愛が訣別に帰着するのは論理的必然で、息絶えることを知らない恋心は存在しない。それは理性的な愛情に発展しない限り、必ず冷却の涯に絶息し、消滅する。そして円満な結婚生活の堅持に必要なのは、共感の強要ではなく、銘々の論理、銘々の主義、銘々の嗜好の尊重である。共感は出来ないが理解は出来る、理解に基づいて必要な配慮を行なう。こうした理性的な振舞いが、継続的な愛情の涵養を可能にする。共感に固執する人ほど、相手の変節を厳しく責め立てる。嫉妬や不安に苛まれる。極端に親しくなるか、極端に忌み嫌うか、その何れかになり易い。だが、自分自身の感情を絶対視するのは奇妙である。何故なら、人間の感情は極めて移ろい易く、不安定で脆弱なもので、長い人生の唯一の指針には値しないからである。従って、共感を好まない人間が、直ちに無関心な厭世家だという訳ではない。人は共感出来ないものを愛することが出来る。つまり、他人を。何故なら厳密には、他者に共感するということは、主観的な錯覚、不可能な錯覚に過ぎないからである。他者という異質な存在を愛する為には原理的に言って、共感だけでは足りない筈なのだ。