サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(After all, Nobody knows the Rightest Answer, Anyone has never been a Reliable Prophet)

*既に言い尽くされたことばかりだが、個人的備忘の為に書いておきたい。

新型コロナウイルスの英国型変異株の蔓延が急拡大し、大阪府は完全なる医療崩壊の危殆に瀕している。感染者の抑制に成功し、関東圏よりも一足先に緊急事態宣言を解除したのは二月末、それから未だ二箇月も経過していないのに状況は悪しき方向へ急変している。東京やその近県においても、変異株の検出が増加傾向にあるとのこと、何れ大阪の二の舞になることは確実であるように思われる。二度目の緊急事態宣言を解除して未だ一箇月も経たぬうちに三度目の緊急事態宣言発令の気配が漂うというのは、不穏な雲行きである。
 副作用の懸念は全く消滅していないとはいえ、ワクチンの接種を強力に推進している国々で、感染者数の劇的な改善が見られているという事実は、確かな希望の燈火である。しかし、日本国内の接種率は極めて低調で、供給量が限られているにも関わらず、注射器の準備の都合で接種の度に廃棄が出てしまうという実務的な課題も生じていると伝え聞く。少なくとも感染拡大抑制に関して言えば、ワクチンの接種が進捗するほどに状況は改善に向かうということは既に自明の事実である(差し当たって、副作用による健康被害の拡大の懸念は、感染拡大抑制という課題とは別種の領域に属する問題である)。しかし、供給の確保も、接種の現場における実務的な課題も、今のところ解決していない。従って安定的な感染抑制が、日本国内で長期的に実現する可能性は、他国と比べても低い。緊急事態宣言と銘打たれた強力な感染抑制対策の内実は、飲食店を20時に閉めることと、企業にリモートワークの推進を要請するということだけである。海外のロックダウンと比較すれば、その空洞化した権威と効力は疑いを容れないだろう。そして、飲食店に時短営業を強いるだけでは、充分な感染抑制の効果は得られないということは、東京都の感染者数の高止まりを踏まえれば明白である。そして、充分な感染者数の低減が為されないまま、宣言は解除された。そして一箇月も経たずに首都圏の感染者数は増加に転じている。蔓延防止措置という、緊急事態宣言より一段階緩い位置付けの感染防止対策が発令されたが、その内実は飲食店の時短営業とリモートワークの推奨のみ、従って今年一月に発令された緊急事態宣言と対策の内容において異なる点は存在しない。大阪府の吉村知事は、次回の緊急事態宣言においては、飲食店の時短営業のみでは不充分で、休業要請や対象とする業種の拡大、公教育の現場における活動の制約など、より踏み込んだ措置を取りたい旨の発言をしていると報道を通じて知った。賛否両論はあるだろうが、府知事の発言は正当なものである。少なくとも合理的な判断である。緊急事態宣言の中身をもっと強力なものに書き換えなければ、蔓延防止措置というカテゴリーを新設した意味がないし、本来ならば最強の切り札であるべき緊急事態宣言の効力を弱体化させたまま放置するのは、明らかに悪手である。
東京オリンピックパラリンピックについては、自民党の親玉である二階幹事長が遂に中止の選択肢に言及したことで、従来の強行一辺倒の風潮が一挙に流れを変えそうな気配である。開催の期日まで残り100日を切り、海外のメディアも、まさか日本は本気でオリンピックを強行する積りなのかという深刻な不安に駆られたかのように、計画の再考を促す論説や記事を発表し始めている。人流の抑制を訴えながら聖火リレーを断行し、大阪府が部活動の制限に踏み切る一方でオリンピック開催の決定は絶対に覆さないという政府や自治体の矛盾した方針に対する大衆の批判的意見は、日増しに募っている。オリンピックが、世界的規模の人流を惹起する危険を孕んだ行事であることは明白である。海外からの一般客の受け容れは断念したとはいえ、関係者や選手の入国を停止することは原理的に不可能であるし、日本国内の人流の増大も確実である。人流抑制が喫緊の課題であるならば、オリンピックの開催は中止以外の選択肢を持ち得ない。仮に開催直前の時期になって感染者数が減少していたとしても、ワクチンの接種すら儘ならず、特効薬も開発されていない状況の中で実施を強行すれば、オリンピックそのものが感染拡大の致命的な引鉄となることは殆ど確実であるように思われる。そこまでしてオリンピックを開催することに何の意味があるのか、仮にオリンピックの所為で爆発的な感染拡大が惹起された場合に、如何なる対処の方策が計画されているのか、という疑問は、多くの人々によって既に共有されているように見える。コロナの影響で生活の困窮を強いられている人々にとって、オリンピックに投じられる巨額の税金は、無慈悲な侮辱のように感じられるのではないだろうか。特に狙い撃ちにされている飲食業に携る人々の不満と絶望は計り知れないものがあるのではないか。
*とはいえ、人流を半永久的に抑制し続けることは困難であり、仮にそれが可能であったとしても、人流の抑制が社会に及ぼす深甚な悪影響を過小に評価することは出来ない。従って今後の状況改善の見通しは偏に、ワクチン接種の進捗の度合に左右されることになるだろう。問題は変異株に対する有効性の維持と、副作用の齎す未知の弊害への対処である。この二つの課題が適切に制御される限り、コロナウイルスが終息へ向かうことは確実であるように思われる。それと共に今後は、次なる感染症の襲来に備え、医療体制の整備(人材・検査・臨床及び入院・ワクチン及び治療薬開発)を進めることが重要な課題として議論されるだろう。新型コロナウイルスの蔓延は、医学的水準の高低が、その国家の政治的・経済的競争力や威信を左右する極めて重要なファクターであることを如実に証明した。同時に各国の危機管理能力の実質的な水準を鮮明に示す結果にも繋がった。危機管理というものが、適切で現実的な未来予測と、迅速で合理的な事前の対策によって構成されるものであるとするならば、少なくとも日本という国家(政府や自治体に限らず、医療機関や企業、民間の個人も含めて)の綜合的な危機管理能力は今のところ、有用な成果を示していないように思われる。コロナウイルスの襲来から一年余りが経っても、日毎の感染者数は減らず、病床は未だ逼迫を続け、ワクチンの接種は遅々として進捗していない。諸外国と比較して感染者数の絶対値は遥かに少ないにも拘らず、医療体制の慢性的な逼迫が是正されないという事実は、日本の医療における危機管理能力の脆弱性を示唆している(無論、この認識は医療従事者への感謝や尊敬の念と矛盾するものではない)。人流の抑制が最も重要な対策であることが、感染拡大の最初期から声高に喧伝されていたにも拘らず、数兆円規模の税金を投じて「Go To キャンペーン」と銘打たれた人流促進対策を敢行した政府の驚嘆すべき英断も、危機管理能力の顕著な劣化を鮮明に証するものであると言える(単に矛盾しているし、発言と行動、方針と施策が相互に咬み合っていない)。そして私自身も含めて、多くの人々は公私を問わず、他人との社会的交流を充分に遮断することが出来ていない。社会情勢を鑑みて、必要な範囲で強力なロックダウンに踏み切り、窮迫する者には公費を投じてその生活を保障し、オリンピックに就いては開催を断念するという風に進めていれば、無念の中止に関して国際的な同情の声も集まるだろうが、ワクチンの確保すら儘ならないのにオリンピックの実施は再考しないという狂気の沙汰を政府の音頭で演じていては、批判と嘲笑を自ら好んで購うようなものである。オリンピックをコロナに打ち克った証にしたいという菅総理の施政方針演説における謎めいた精神主義的宣言(或いは単なる幼稚な虚栄心だろうか)も、ただ寒々しく響く。何故なら、我々はコロナを聊かも克服しておらず、その見通しすら不透明であるからだ。まさに、捕らぬ狸の皮算用である。
*長い眼で見れば、ワクチンの接種が拡大し、感染者数が減少に向かうことは確実であるように思われる。治療薬の開発や医療体制の強化も、段階的には進められていくだろう。その意味では、現下の狂騒は永遠に続く地獄であるとは言えない。けれども、危機管理能力の深刻な劣化という問題が、自然に改善されていく見通しは存在しない。確かに我々人類は誰一人として、未来の確実な予知に成功する才覚には恵まれていない。誰もが混乱や憶測に呑み込まれ、適切な判断力を堅持することは常に至難の課題である。要するに人類はもっと賢くならなければならない。過去に学び、合理的な推論を積み重ね、未来を予測し、そして現在の行動を決定する。こうした叡智を一人一人が獲得する為には、公教育の改善のみならず「生涯学習」という理念の更なる普及が不可欠である。徐々に社会の風向きは変わりつつあるとはいえ、長い間、この国では「労働」と「教育」との間に決定的な断絶が横たわってきた。無論、所謂エリートに分類される人々にとって、両者の価値は今も昔も連続的なものとして存在しているだろう。しかし、多くの大衆的労働者にとって「教育」或いは「学習」は、高校や大学の卒業と共に終焉を迎えるものであり、その後の「学習」は専ら、自らの従事する職業の実務に関するものに限られてきた。自分の実務に関する知識さえあればいい、そして一昔前「男子厨房に入らず」の時代であれば、彼らは教養どころか、身近な家事に関する知識すら持ち合わせずに泰然としていたのである。
 日本が発展途上の段階にあり、巨大な伸びしろ、成長の余白を有していた時代ならば、そうした生活の形態は成立し、機能していたのだろうと思う。しかし、世の中の仕組みは刻々と複雑化し、通信技術の発達に伴って社会の変容は高速化している。知識や思考の価値自体も次々に更新されて、常識の劣化する速度は日毎に増している。学生時代の知識だけを携えて、長い人生を適切に泳ぎ切ることは難しくなっている。それゆえ、知識や思考を定期的に更新していく習慣を持たなければ、社会に適応することは年々不可能に近付いていく時代なのである。日々新たな知見が生まれ、無数の情報が氾濫する環境に身を置きながら、古色蒼然たる知識に縋って自らの言行を律するのは危険な選択である。十年前の常識が失効するまでのスパンが刻々と縮み続ける世の中で、何も学ぶ習慣がない、一冊の本も読まなければ特段の趣味もない、毎日定型的な業務に埋没し、残った時間は食事や排泄や睡眠や性交や、そうした生理的現象に終始しているという生き方を貫くのは余りに勇敢過ぎる。自分の頭で考え、行動出来る人材の育成が不可欠だと世上の企業は挙って言い立てている。実際、自分の頭で考える習慣がない人間は、社会に対する厄介な重荷になる。自分の意見も意志もなく、理想もなく、従って他人の意見を理解する能力にも欠けている。意見も理想もないから、行動を律する理由がなく、欲望や衝動に容易く流され、他人の意見や言動に直ぐ影響され、自分自身の人生と呼び得る時間を持つことすら出来ない。他人に指示されなければ行動出来ず、自力で結論を決定することも出来ない。生涯、他人の意向を推し量ることに明け暮れ、果たして自分が現在の生活に満足しているのかどうかも分からない。他人を説得したり、地道な努力を積み重ねたりして、何らかのゴールに辿り着こうとする意欲もない。要するに自立しておらず、主体性も備えておらず、何時までも赤ん坊のままである。洗練されない欲望だけが存在する。だから、社会の側に受け容れてもらえない。
 究極のところ、人間は自分自身との良好な関係を、つまり自己との対話の習慣を維持しなければならない。別の言葉で言えば、内省の習慣を持つということである。自分が何を考え、何を感じているのか、明確な言葉に置き換える習慣がなければ、自分自身にとって最善の選択を決定することも出来ないし、それを他人に向かって表現したり、他人と共有したりすることも出来ない。自分が何を知っていて、何を知らないのか、それが分からなければ、何を学ぶべきなのかも分からない。言葉は、曖昧な事象に明確な輪郭と形状を賦与する。それによって我々の思考の明瞭な対象が出現する。そうやって我々全員が少しずつ賢くなっていかなければ、危機管理能力の改善は期待出来ない。頼もしい預言者の降臨を待ち侘びても無益である。それより自分自身の頭脳を鍛える方が遥かに合理的で迅速な方法だ。