サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(Discriminatory Comments aren't just his own but ours)

*引き続き、仕事と育児と洋書の日々で、生活に劇的な変革は起きず、その予兆もない。従って特段のtopicもない。誰にも利益のない私的な備忘録として走り書きする。その瞬間には何の意味もないと思われた出来事や、瑣末な思考の断片が、数年を閲した後に再読すると妙に刺激的であったり感慨深かったりするものであるから、何でも書き留めておくのは悪いことではない。それに如何なる種類の習慣においても、継続は最大の美徳である(無論、悪しき習慣の継続は悪徳の無際限な膨張に帰結する)。

*緊急事態宣言の延長が公式に発表され、三月上旬まで指定された都道府県では不要不急の外出自粛や飲食店の時短営業が継続される。一時は連日2000人を超えていた東京都の感染者数は露骨に減ってきた。検査数を抑制している為に陽性者の数が減っているだけだ、単なる数字の操作、偽装に過ぎないという意見も巷間には濫れている。報道や政府の発表を鵜呑みにすることが時に危険であるのと同じく、名もなき人々の形作る輿論を無条件で受け容れることも時に危険である。保健所や厚労省に勤めたり、医療現場で働いている訳でもない私の掌に、その種の「陰謀」の実在を断定する材料は握られていない。小売りの現場に身を置く私の日常的経験に照らせば、東京都心における元旦以降の人出の激減は鮮明である(直近二週間くらいは明らかに増加傾向で、世間の気の緩みを肌で感じている)。その効果が徐々に出て来たのだと考えれば、最近の陽性者数の減少は一概にtrickだとは言い切れないと思う。保健所の稼働が極限の水準に達し、検査数が減っていることは事実らしいが、それだけが感染者の数値的下落の唯一の要因であると考える明確な根拠は存在しない。つまり、厳密な真実は誰にも分からない。
 何れにせよ医療体制の逼迫(「自粛」や「不要不急」や「逼迫」といった単語は、コロナの御蔭で俄かに仕事が増えたのではないだろうか)という現状を鑑みれば、緊急事態宣言の延長は避けられない判断だったのではないかと思われる。固より三月は、卒業や就職で人の動きが活発化する時期である。宣言の発令によって人出を抑制する法的根拠を維持しなければ、各種の式典や会食、旅行などを制限することが出来ないという考えも影響したのではないかと推測される。

東京オリンピックパラリンピック組織委員会森喜朗会長が、女性差別と看做される失言によって、辞任の選択肢に言及するほどの窮地に陥っている。不用意な発言で自らの社会的信用を失墜させるという過失は、森氏に限らず、あらゆる社会的場面で頻繁に見られる現象である。あらゆる差別の廃絶は、極めて実現の困難な課題であるが、少なくとも廃絶に向けて具体的な対策を着実に履行していくという方向性自体は、国際的な共通認識であると思われる。そしてオリンピック・パラリンピックという極めて国際的な行事の運営に携わる組織の長が、このような国際的共通認識の意図さえ理解していないのではないかという揣摩臆測を他人の胸底に惹起せしめる性質の失言を、公共の場面で披露するというのは度し難い失錯である。森氏は先日も、新型コロナウイルスという艱難を黙殺して東京オリンピックパラリンピックの開催を強行すべきであるという趣旨の不可解な発言を行い、日本の内外を問わず多方面から、その見識を疑われたばかりである。これらの相次ぐ失言によって森氏の社会的信用が毀損されれば、こうした人間を首席に推戴する東京オリンピックパラリンピック組織委員会の信用も同時に失われるという自明の成り行きを、かつて内閣総理大臣も務めた有能な名士である森氏が理解していない筈はない(こうした信用の毀損が、彼の宿願である大会開催の実現に向けた趨勢を絶望的に失速させることも、御存知の筈である)。御年八十三歳の森氏の思考が、現代の社会的常識に適合しない保守的な硬変を示しているという懸念は小さくないが(しかし、性差別に対する批判は近年の流行に留まるものではなく、既に持続的な伝統を背負っている)、とはいえ、彼の知性が同年代の平均的日本人と比して特段に劣悪であるとも言い切れないだろう。恐らくは、彼は彼自身の権力の仕組みを見誤ったということではないだろうか。自分に許された社会的特権や恩典の範囲、水準、性質を正しく判定し得ず、自分の意見に対する聊か驕慢な信念ゆえに、あのような発言を気安く世間に向かって披歴してしまったのではないか。国民に不要不急の外出自粛や時短営業を要請しながら、自身は夜の会食に赴いてしまう抑制の利かない一部の国会議員の姿から透けて見えるように、自分は例外である、自分に限っては許される、という特権的意識の不当な昂揚(批判されて辞任に追い込まれるということは、少なくとも第三者は彼らの特権を認めていなかったということである)が、彼らの社会的蹉跌の致命的な引鉄の役目を担っている。彼らは自分自身の社会的権威を極めて堅固なものだと考えていたが、実際には案外脆かったのである。その意味では、彼らの危機管理能力は卓越したものではなかったということだ。

 他方、森氏の性差別的な発言を批難する人々の一部は、彼に「老害」というlabelを貼り付けて、その保守的な思考を糾弾しているが、冷静に考えれば「老害」という表現は随分と差別的な言辞であり、暗に年老いることは罪であると断定しているように聞こえる。女性であることを罪と断定するのと、何も違わない振舞いである。森氏の性差別的発言を攻撃する為に、年齢差別的発言を行使して恬然たる顔をぶら下げているのは滑稽であり、醜悪である(無論、私は森氏の時代錯誤的な見識を擁護したい訳ではない)。他者の失言を批難することに夢中になる余り、自己の失言にも気付かないようでは、先行きが思いやられる。少なくとも森氏に対して見識の面で優越しているとは言えない。社会的な顕職を歴任した人間が、自らの老いを感じて適切な時期に最前線から勇退するのは、つまり晩節を穢さぬように適切な判断を下すのは、誰にとっても容易なことではない。少なくとも私は森氏の蹉跌に学んで、同じ過ちを自分が犯すことのないように自重したいと思う。