サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

改憲ラディカリズムの葬送曲

 詳しいことは知らないが、先日、安倍総理が今秋の臨時国会において、憲法第九条を巡る改憲草案を提出すると明言し、物議を醸しているらしい。今年の憲法記念日にも、2020年度までに改憲を実現すると息巻いて、総理は世間を騒然とさせた。改憲に関する論議は戦後七十年間ずっと、この国の内側で盛んに渦巻き続けてきた訳だが、何故、安倍晋三という一人の男がこれほど性急に「改憲」の実現に血道を上げているのか、その情熱の在処は俄かに量り難いところがある。

 私は安倍総理の内面的な事情を知らない。その政治的情熱の由来も、理解していない。祖父である(祖父だったっけ?)岸信介の遺志を受け継いで、悲願成就に燃えているという情報に接した覚えもあるが、所詮は断片的な聞き齧りに過ぎない。

 改憲の焦点とされている日本国憲法第九条は、下記の通りである。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 「戦力を保持しない」という憲法第九条の文言に忠実に従うのならば、従来の解釈の性質はさておき、自衛隊違憲であることは歴然としている。自衛隊違憲の状態から解き放つ為に、改憲を敢行するという判断は一見すると理窟に適っているように感じられるが、問題は、自衛隊違憲状態であるにも拘らず、その存在を安定的に維持されているという身も蓋もない事実の方だ。言い換えれば、少なくとも「戦力の不保持」という憲法の有名な規定は、戦後の日本社会においては全く履行されていないのである。

 憲法に「戦力の不保持」が明記されていても、自衛隊という強大な軍事的組織を国民の税金によって維持することが可能である戦後日本社会の現実を考慮するならば、自衛隊違憲という問題は、性急な改憲によって克服される必然性のない、曖昧な問題である。周知の通り安倍内閣は、集団的自衛権の容認を「憲法の解釈変更」という超法規的な措置によって実現させた政権である。そもそも憲法の規定を恣意的に解釈し得る権力を備えた政府が何故、態とらしく憲法への清廉潔白な従属を心掛けているかのように振舞い、改憲の必然性を声高に訴えるのか、その理路は判然としない。しかも安倍総理は今年の憲法記念日に発したメッセージで、自民党改憲草案とも一致しない「個人的な腹案」を公表するという性急な暴挙に出た。そこには、理路整然たる政治的計画が精緻に組み立てられているという印象が存在しない。単に安倍晋三という一個の政治家の異様な個人的情熱の炎上が感じられるばかりである。

 安倍晋三は、今まで誰も成し遂げることの出来なかった「改憲」という快挙(それが快挙であるかどうかという質的な判断は差し当たり棚上げしておこう)を実現した偉大な宰相として、歴史に名を刻みたいだけなのだ、という意地の悪い評価が、世間には流布しつつある。生憎、私はその真偽を厳格に判定する材料を有していないが、仮にそのような観測が事実であるとするならば、政治家の使命とは一体何なのだろうか。海の向こうでは愚昧で下品な大統領が、訳の分からぬ虚栄心に衝き動かされて、エゴイスティックな放言を繰り返している。恰かも自分が絶対的な独裁者であることを国際的に誇示しようと努力しているかのように。真実は何なのか、客観的な事実は何なのか、そうした現実的な諸問題は後景に追い遣られ、権力の絶巓への登攀に成功した人間の「プライド」だけが何よりも優先される。こうした現象が、人類の社会の「劣化」を如実に示す徴候であることは疑いを容れない。自己を正当化する為には、不都合な真実を悉く捻じ曲げ、相手の言い分を恣意的に曲解し、逃げ切れる限り逃げ切ろうと、恥知らずにも幼稚な虚言を弄し続ける。無論、こうした悪性の言動が、彼らだけに例外的に刻み込まれた、忌まわしい聖痕であるとは思わない。私も、自分に都合の悪い真実からは、成る可く眼を背けておきたいと考えてしまう、頽廃的な人間である。しかし、幾らなんでも現在の自民党政権の閣僚たちの人間的な頽廃は、露骨であり過ぎると思う。

 先日来、稲田朋美防衛相が東京都議選の応援演説で仕出かした失言の問題が、世間を騒がせているが、誰がどう考えても誤解の余地のない、歴然たる「失言」を行なっておきながら、飽く迄も「誤解を招いた」と言い張る稲田防衛相の「根性」には、悪寒を覚えざるを得ない。発言を撤回する以上は、きちんと謝罪すればいいのに、恰かも「誤解する方がおかしい」とでも言いたげな傲慢な口振りを貫き通す。マスコミの追及にも「誤解」という言葉を馬鹿の一つ覚えのように繰り返すばかりで、そこには微塵の誠意も存在しない。充分な年の功にも拘らず、彼女は謝罪するということの意味を理解していないのか。それとも、あの厚顔無恥の対応は、何らかの高度な政治的判断の賜物なのだろうか。恐らく、世間の人間は皆「馬鹿ばかり」だと思っているから、あのような馬鹿げた態度に出るのではないだろうか。全く舐められたものである。

 大事な都議選の最中に政治的オウンゴールを決めて、飼い主の安倍総理も内心では「糞っ垂れめ」と思っているのではないだろうか。私が安倍さんの立場なら、きっと歯咬みして、そう思うだろう。失敗の後始末にも失敗して、彼女は一体、何がしたいのだろうか?