サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「虚言」に就いて

 加計学園による獣医学部新設を巡って、第二次安倍内閣の「頽廃」に関する様々な憶測と報道が日夜飛び交っている。太平洋を隔てたアメリカ合衆国では、トランプ大統領の「ロシアゲート疑惑」に関する政治的な混乱が白熱している。北朝鮮では示威的なミサイルの実験が立て続けに行なわれ、イギリスでは悲惨なテロリズムが続発している。

 こうした政治的=社会的情勢を総括して「末法の世」だと慨嘆するのは簡単なことだが、別に世の中が様々な問題や障碍を抱え込むのは現代に限った固有の疾病という訳ではない。政治の世界で権力の座を巡る暗闘が戦われるのも、信念と信念が過激な衝突を繰り返すのも、別に昨今に始まった特異な現象という訳ではないのだ。一つ一つの問題を粘り強く把握し、検討を重ね、議論を繰り広げる以外に歩むべき途はない。

 籠池理事長(本稿執筆の時点では、既に退任しているが)率いる森友学園の「癒着」と「忖度」の問題が曖昧な風化を強いられた矢先に、こうして類似の「便宜」に関する醜聞が持ち上がる。勿論、真相を思い込みで論じたり断じたりするべきではないが、同種の醜聞が立て続けに世間の耳目を集めるという事態に、所謂「火のないところに煙は立たぬ」という俚諺を想起させられるのは、決して私だけではないだろう。特に加計学園の問題に関しては、文部科学省の前任の事務次官である前川喜平氏が、安倍総理の圧力を認める証言を公表したことで、火の手が刻々と勢いを増している。

 「総理の御意向」「官邸の最高レベル」といった文言が、新聞やテレビやネットの世界を賑わせている中、菅官房長官は懸案の文書を「怪文書」と断定し、前川氏の私生活における不品行に殊更な言及を行なって、議論の焦点を捻じ曲げることに意を尽くしているが、最近の報道を徴する限り、裏目に出ているようだ。前川氏が「出会い系バー」なる如何わしい店に通い詰めていたという事実を報道した読売新聞は、却って世論の批判を浴び、弁明の社説を発表した。尤も、読売新聞が官邸の大本営発表の一翼を担う「機関紙」であり「御用新聞」であるという批判を、そのまま鵜呑みにするのは公正な態度ではないだろう。そもそも読売新聞社という組織が、今回の問題に関して一枚岩であるという証拠は特に存在しない。

 それにしても奇怪なのは、政府や文科省が「総理の御意向」を示す文書の再調査を拒否する際の定型的なコメントである。「文書の出所や入手経緯が明らかにされていない文書(怪文書という含意であろう)に就いては、再調査の必要を認めない」というクリシェである。常識的に考えれば「文書の出所や入手経緯が明らかにされていない」からこそ、再調査の必要性が生じる筈である。再調査という言葉の定義から議論を始めなければ、真相の究明には着手出来ないと、政府は言いたいのだろうか? これを正当な議論と称することは難しい。

 6月9日の時点で、松野文科相は文書の「再調査」を行なう方針を表明した。世論の反発や野党の追及に、これ以上抗し切れないと判断したのであろう。尤も、政権側は、何も疾しいことがないのなら最初から堂々と再調査に踏み切るべきであった筈だ。にも拘らず、あのような見苦しい押問答の為に時日を費やしたのは、再調査によって「不都合な真実」が明るみに出ることを懼れたからであろうと、普通は推論するものではないか。捏造された怪文書によって、政権が不当な攻撃を受けているのであれば、再調査によって真実を明るみに出すことは、寧ろ政権の存続と名誉に資する作業であろう。異様なまでに頑迷な「再調査の拒否」は、政権が何らかの「不都合な真実」を隠蔽していることの傍証として、第三者には受け止められるに決まっている。そうした成り行きが、政権の頭脳明晰な高官たちに想像出来なかったとは考え難い。世論が騒ぎ立てない限りは、巧く誤魔化して遣り過ごそうと考えていたのだろう。前川氏の証言の信憑性を減殺する為に、下世話な情報を巷間に撒き散らしたのだろう。そのような印象を世間に与えることで計上される政治的な損失を、政権の優秀な幹部たちが想定出来なかったとは思えない。

 「虚言」を弄することは余り褒められた話ではないが、「嘘も方便」という俚諺を徴するならば、常に馬鹿正直に振舞うことが唯一の「誠意」であると極論すべきではないというのも、一つの見識である。だが、仮に虚言を弄するにしても、その水準が余りに低劣であることは、政治家の資質としては絶望的な瑕疵と呼び得るのではないか。直ぐに露顕するような見え透いた虚言を子供のように押し通して、道理を捻じ曲げ、真実を「もう一つの事実」(Alternative facts)に掏り替えようとするのは、幾らなんでも幼児性が露わに過ぎる。直ぐに露顕するような嘘を吐いて、真実の圧迫から逃れようと企てるのは、古今東西を問わず、幼子の振舞いであると相場が決まっている。いや、それでは幼子に失礼であろう。幼稚なまま、馬齢を重ねた人間の特技と称すべきかも知れない。無論、私個人も時に、そのような「もう一つの事実」に縋りたくなることがある。「不都合な真実」から眼を逸らしたくなることがあるのは、万人に共通の性でもあろう。だが、一流の政治家が公共の場で堂々と拙劣な「虚言」を押し通して恥じないのは、流石に社会的な害毒である。