サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「苦悩」に就いて

 幼い頃、私は真面目な優等生というタイプの人間であった。幼稚園に上がるか上がらないかという頃から、公文式へ通わされていた御蔭で、小学校に上がってから暫くの間は、勉強に躓くということがなかった。テストは満点を取るのが当たり前で、先生や級友の保護者から称讃を浴び、未だ素直な級友たちから尊敬の眼差しを向けられることに慣れ切っていた。

 そのままの調子でずっと歩んでいけたのならば、私はもっと優秀で、絵に描いたような社会的栄達に辿り着いていたかも知れない。或いは、それでも結局、何処かで致命的な挫折を味わって、平々凡々たる境遇に落ち着くことになったかも知れない。無論、存在しない未来に就いて彼是と論議を尽くしても馬鹿馬鹿しいだけで、良くも悪くも、自分の選んだ道筋だけが、自分の人生の結果なのだという現世の真理に、異論を唱える積りは微塵もない。

 要するに私が自分自身の半生(たかだか三十一歳の身空で「半生」などとは大仰極まる話だが)を振り返って言いたいのは、人生というのは全く予想もつかない方向へ逸れていくものなのではないか、ということだ。事前の想定を裏切るということが、人生という難儀な営為の本質なのではないか、と考えたくなる。幼い頃の私は、馬鹿馬鹿しいくらい真面目な優等生の衣裳を纏っていた。しかし、中学生くらいから己の「優等生という自己定義」に不愉快な、屈折した感情を懐くようになり、寧ろ私は進んで「逸脱」を求めるような、奇妙な「変節」に搦め捕られるようになった。尤も、そのことを私は聊かも悔やんでいない。昔から私は、過去を思い出して後悔するという精神的な習慣と無縁の男である。起きてしまった現実に就いては、逃げも隠れもせずに対峙するというのが、私の自然な信条なのである。

 大学を中退し、離婚歴のある子持ちの女性と二十歳で結婚し、会社を幾度も変え、時には職場放棄に踏み切って大騒ぎになったこともある。周囲の反対を押し切って結婚に踏み切ったのに、たった五年半で離婚した。こういった経歴は余り褒められたものではない。特に、小さい頃の真面目な優等生としての自分を顧みると、二十代の季節に私が潜り抜けてきた修羅場の数々(大した修羅場ではないと感じる人も少なくないだろうが、当事者にとっては、それなりに苛酷な経験の連続だったのだ)は、全く突拍子もない「逸脱」に感じられる。今になって三十一年間の半生を思い返すと、何と言えばいいのか、当初の予定とは全く異なる方角へ、只管に押し流されてきたような気分になるのだ。繰り返すが、私は現在の境遇に不満を述べている訳でも、自分の過去の選択を悔やんでいる訳でもない。巧く言葉に置き換えられないのだが、私はずっと私なのに、何時の間にか、全く知らない自分に生まれ変わってしまったような感覚に囚われることがあるのだ。

 元々私は、非常に小心者である。だが、私は何となく漠然とした感想として、自分は逆境に強い人間なのではないかと、考えることがある。或いは、逆境に強くなったと言うべきか。いや、若しかすると、小心者であることと、逆境に強いことは、必ずしも矛盾しないのではないか。

 起こってしまった出来事に就いて、私はそれを否認しようとは思わない。それが如何に苛酷な現実であったとしても、その現実に手酷く痛めつけられたとしても、私はその現実を否認しようとは考えない。或いは、否認したところで、どうにもならないような現実ばかりを踏み越えるうちに、そのような価値観や信条が培われたのかも知れない。例えば離婚したとき、或いは離婚の話が持ち上がったとき、私は非常に苦しんだ。余りにも苦しくて、夜も眠れなかったり、職場で吐き気を催したりしたこともあった。自分は「無価値な人間」なのだと、本気で思い詰めたこともあった。だが、私は完全に潰れることなく、生き延びてきた。その理由は、何なのか。自分自身の精神的な傾向から、その原因の手懸りを探り出すとするならば、それは私が「悩みの状態に留まる持久力」を持っているからだと思う。無論、これは飽く迄も根拠の曖昧な、主観的な自己認識に過ぎない。

 私は元来、考え込むタイプなので、それこそ「離婚」のような典型的危難に逢着すると、徹底的に悩み抜いてしまう。行住坐臥、如何なる瞬間にも、その問題に脳味噌の中身を吸い込まれてしまうのだ。しかし、それによって精神的に破綻した例がない。仕事で思い悩み、剰え職場から逃亡した経験もある私が、精神的に破綻していなかったのかと問われれば、若干疑わしい部分もあるが、少なくともそのとき、私は職場に戻って、大嫌いな上司の下で再び働くことに同意したのである。

 過度に悩むことで精神的な破綻に至る人は少なくない。しかし、私はどれだけ思い悩んでも、必ずその先へ光を見出して、辛うじて生き長らえてきた。その意味では、私は馬鹿馬鹿しいほど根源的なオプティミストである。

 若しかすると、私は彼是と思い悩むことが好きなのかも知れない。徹底的に脳味噌を酷使して、埒の明かない問題に就いて思索を巡らせることが好きなのかも知れない。そうでなければ、こんな雑記だらけのブログを営々と更新する理由が見当たらない。だから、深刻な「苦悩」の状態に閉じ込められても、最終的には、その息苦しい洞窟を踏破することが出来るのだろう。悩み続けるうちに、合理的な解決策を見出せずとも、大抵の問題は、時間の経過に伴う環境の変化や、心理的な変化によって自ずと解消されていくものだ。或いは「問題が問題であることを止めてしまう」と表現した方が、より適切であるかも知れない。考え抜くうちに、徐々にその問題の無意味さや、根源的な抗い難さが視界に映じるようになる。そこまで進むと、苦悩は自然に燃え尽きてしまう。その繰り返しが、私を精神的な破綻から救済してきたのだろう。