サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「決断」に就いて

 決断することは常に難しく、多くの危険を孕んでいるものだ。決断するとき、私たちは綿密な熟考を経ている場合もあるし、単なる素朴な思い付きだけを足掛かりに選んでいる場合もあるが、何れにせよ、決断が困難であることには変わりがない。綿密な検討を積み重ねた上で下した結論だからと言って、成功するとは限らない。同様に、軽率な思い付きが想像もしなかった幸福な結末を呼び込む事例も、枚挙に遑がない。

 決断が困難であるのは、それが予期された結末を呼び込まない虞を絶えず孕んでいるからである。見込み通りに物事が運ぶことは稀有な現象であり、往々にして私たちの理想と計画は、私たちを取り囲む身も蓋もない現実によって裏切られるものである。そうした不安が足枷となって、決断力が鈍磨するという事態は巷間に有り触れている。けれど、私たちは一つの端的な真理に就いて、理解を深めなければならない。つまり、あらゆる決断が「不確定性」を含むことは避けられない、という素朴な真理を正しく冷静に理解しなければならないのだ。

 決断力を高める為には、如何なる結果が生じても、自分が選んだ途ならば悔やむことはないという「覚悟」を固めることが必要である。そうした覚悟が容易く固められるのならば、何も苦労はしないし、思い悩むこともないと、人は言うかも知れない。確かに、如何なる結果が生じても受け容れる覚悟を持つということは、決して簡単な話ではない。だが、そもそも「簡単な話」ばかりを望んで安逸を貪ろうとする態度が、人生においては「諸悪の根源」なのである。

 生きることは常に苛酷であり、私たちの期待と願望は日課のように裏切られ、破綻を強いられるものだ。そうした現実にすっかり幻滅してしまい、こんな辛い境遇に陥るくらいならば何も選ばない方がマシだと思うのも、無理からぬ成り行きである。けれど、そうした絶望が私たちの存在と精神を救済する見込みは極めて小さい。

 決断力を高めるという言い方自体に、誤解を招く「隙」があるのかも知れない。否応なしに、私たちは常に、刻一刻と「決断」を迫られている存在である。何も選ばないという選択さえも、否応なしに一つの「決断」として何らかの具体的な現実を喚起してしまう。先ず、そうした事実を精確に認識することから始めなければならない。私たちは時に、自分自身の決断力を疑う余りに、他人の意見に縋ろうとする。親や上司や友人や恋人や、或いは先賢の遺した偉大な書物の一行に縋って、選択の根拠を求めようとする。それ自体は、別に罪でも悪でもないが、その結果として得られた現実に対する不満を、自ら根拠に選んだ「他人の意見」に叩きつけるのは立派な欺瞞であり、懶惰な罪悪である。その意見に従うことを決めたのが「自分自身」であるならば、その意見を提示した他人が悪逆の徒であったとしても、裁決は「共犯」にしかならない。選ばれたものの罪は同時に、選んだ者の罪でもあるのだ。

 自分の決断には自分自身で責任を負うしかない。他人を責めても、己の決断が正当化されることはない。例えば、若しも車に撥ねられて死んでしまったら、幾ら運転手を糾弾しても、二度と自分が甦ることはないのである。重要なのは他人を糾弾することではなく、自分自身が「より良い生」を営むことであろう。ならば、日頃から如何に車に撥ねられないように注意深く行動するか、それを生きている間に確りと考えておいた方が賢明であるに決まっている。