サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(三毒・懲罰への欲望・感情の制御・排除の論理)

*今日、と言っても日付が改まったので昨日の話ということになる。職場で少し腹立たしいトラブルがあり、久々に厳しい口調で通達を発した。些細なミスの積み重ねが生み出した状況に過ぎないことは確かである。私の指導と監督が不充分であったことも認める。ただ、一人一人の意識の低さが連鎖して持ち上がった問題であったことに、無性に苛立たしい気分を掻き立てられてしまった。

 怒りという感情は余り肯定的な取り扱いを受けない代物である。仏教では「三毒」と呼んで「貪(強欲)・瞋(忿怒)・癡(愚昧)」の三つの悪徳を戒めているし、昨今では「アンガー・マネジメント」(Anger management)という心理療法プログラムが社会的な注目を集めている。怒りを制御することは、人間の成長において最も重要な心得の一つである。その意味では、腹立たしい想いに囚われるというのは、私の不徳の致すところであるだろう。

 所謂「パワハラ」(和製英語 Power harassment)という言葉若しくは概念が世間の常識に登録されて久しい現代の日本社会で、怒りを制御することの重要性と倫理的な要請は益々高まっている。ただ、怒りという感情そのものの存在を否定することは、場合によっては精神的な歪みを生み出す結果に繋がりかねない。重要なのは、怒りという感情を抹殺することではなく、その正しい使用法に習熟することであると言うべきだろう。どんなに悲惨で不合理な出来事に遭遇しても全く怒りを覚えない人間が、精神的に健常であるかどうかは議論の余地を有する。無論、怒りを覚えないに越したことはないし、怒りが正常な判断力や思考力を混乱させ、機能不全に導くことは、歴史的にも経験的にも証明された事実である。だが、そうした現実を極端な方向に解釈して「怒りを覚えること自体が罪悪なのだ」という命題を信奉するのは、必ずしも人間性に関する適切な省察の結果であるとは言い難い。

 私も過去の自分を振り返って、その驚愕すべき(或いは慨嘆すべき)短慮と愚かさに気恥ずかしさを覚えることがある。それを若さゆえの「血の気の多さ」だと強弁して、過去の自分を正当化するのは私の今も変わらぬ愚かさの証明である。他人の過ちを赦し難いものだと看做して興奮し、荒々しく劇しい罵言を用いて、当事者に懲罰を加えようとする異様な情熱に駆られる習慣は、今も完全には克服されていない。昔に比べれば遙かに穏当な言い方を選ぶ辛抱強さを身に纏えるようになったと自負しているものの、修行が足りていないことは厳然たる事実である。

 如何なる忿怒も排斥されるべきであるという極端な理想主義に、私は全面的な賛意を示すことが出来ない。それは如何なる犯罪に対しても懲罰を科すべきではないという極端な理想主義に同意することが出来ない、ということと同義である。懲罰そのものは、存在しない方が望ましいに決まっている。懲罰の不要な社会を建設出来るのならば、それが最も充実した理想郷であることは疑いを容れない。だが、そうした理想を想い描くことと、現実の世界で「懲罰」という仕組みが稼働していることの間に、潔癖な考え方に基づいて、恥ずべき矛盾を発見しようと努力する必要はないと、私は思う。無論、例えば「適切な懲罰」という考え方が極めて曖昧な基準に即していることを私は認める。それは「適切な軍事力」という考え方の根源的な脆弱さを想起すれば、直ちに理解し得ることであろう。人類の歴史は、暴力の適切な運用に失敗を重ね続けてきた。同様に、人類の歴史は懲罰の不正な執行を幾度も繰り返し、場合によっては無辜の善人を虐殺することさえも肯定してきた。その意味では、軽々に「適切な懲罰」或いは「適切な怒り」という理念を掲げるべきではない。しかし、軍事力=懲罰=怒りといった理念的体系を完全に廃絶することが、直ちに人類の幸福に資するとは言い切れない。

 日本語には「義憤」という言葉がある。この言葉に付き纏う根源的な危うさを否定しようとは思わない。「正義」の名の下に執行された数多の暴力が、単なる権力の濫用に過ぎなかった事例を、私たちは歴史的な地層の中に幾らでも探り当てることが出来るからだ。だが、如何なる不正に対しても怒りを覚えないのは、人間の目指すべき理想的な態度であると言い切れるだろうか?

 いや、こんな推論はまるで誘導尋問だ。場合によっては、怒りは有用であるという理窟を正当化する為の煽動のようなものだ。結局、怒りは己の人間的な度量の限界を示すものなのだろう。その意味では、怒りを否認することは一見正しい態度に見える。だが、怒りを否認すれば、その矛先は自分の臓腑を傷つけるばかりであろう。怒りを覚えたという事実そのものを恥じるべきではない。

*考えてみれば、様々な人間的感情の顕現を「否認」するべきか、それとも「肯定」すべきか、という問題は、必ずしも「忿怒」に限られた話ではない。何らかの理由で深刻な「悲嘆」に囚われたり、或いは望外の僥倖に恵まれた揚句、その歓びに深入りして享楽的な強欲に呑み込まれたりする場合もあるだろう。何れにせよ問題なのは、感情の発生そのものではなく、感情を制御し得るかどうかという点である。それは「怒り」の場合も「悲しみ」の場合も何ら変わりない。

 だが「感情を制御しなければならない」という倫理的な要請は実に容易く「感情を否定しなければならない」という極論へ転化し得る。こうしたストイシズムの亢進が、却って人間性の荒廃を惹起しかねないことにも、私たちは留意すべきだろう。「感情の否定」は即ち「事実の否定」であり、それは「感情の制御」という理性的な方針と、根本的に対立している。何故なら、理性的な方針は常に「事実の肯定」を本分としているからだ。「感情の否定」は、怒りを覚えている自分自身を心理的に抹殺するということである。だが、そのような「心理的自殺」が、本当に理性的な自我の構築に役立つと言えるだろうか?

 無論「事実とは何か」という根源的な難問が聳え立っていることは一応、私も承知している積りである。「事実」は、単に理性的であろうと試みるだけで手に入るほど、生易しい代物ではない。だが、少なくとも「事実」を把握しようと切実に望まない限り、理性的な精神は確保し得ない、ということは言えると思う。そして「事実」に対する認識の欲望を燃やさない限り、徒に「感情の否認」に赴いても無益であることは論を俟たない。

*小池代表率いる「希望の党」が、民進党所属の候補者に公認を出すに当たって、厳格な「選別」と「排除」に踏み切ったことで、当初の政権交代への期待は急激に縮小しつつあるように見える。小池代表が民進党からの合流希望者を丸呑みすれば、自民党に一泡吹かすことも可能だったかも知れないが、改憲と安保法制を踏み絵にした選別の結果、枝野氏を中心にリベラリズム的な「立憲民主党」が出来上がってしまい、当初の「反安倍」という旗幟が曖昧に揺らぎ始めている。

 これまで小池氏は自身の衆院選への立候補を否定してきた。それを「本音」として受け止めるべきなのかどうか、誰もが疑いの眼差しを向けていたように思う。敢えて方針を明確に示さないことによって、自民党に揺さぶりを掛けているのではないか、或いはマスコミや世間の関心を集める為に敢えて態とらしく本音を隠匿しているのではないか、と私も考えていた。だが、民進党を丸呑みすることで得られる「果実」を、自ら「排除」し始めた小池氏の言動を徴する限り、若しかしたら本当に国政選挙には打って出ない積りなのではないか、と感じられるようになってきた。

 民進党の人間を無条件に受け容れたら、首相指名の対象が前原氏に移ってしまうのではないか、という疑念を理由に挙げる識者もいるらしい。それも一つの説得的な見解ではあるが、民進党を丸呑みしない限り、倒幕の快挙は成功しないだろう。誰であろうと「反安倍」の旗幟の下に結集して、持ち前のパフォーマンスで無党派層を一挙に攫ってしまえば、盤石の自公長期政権も罅割れることは必定である。敢えて、そうした無節操な総力戦を自重するということは、言い換えれば現時点で、小池氏の側には総理の椅子を簒奪する意思がないのではないか、という風に思われてならない。

 或いは、政権奪取後に恐らく必然的に訪れるであろう「政治的な分裂」を警戒しているのだろうか。総選挙に圧勝する為に「烏合の衆」を形成しても早晩、空中分解することは眼に見えている。それでは意味がないと考えたのだろうか。

 或いは、とりあえず野党第一党の地位を確保し、憲法改正に向けて、自民党との協力体制を構築する腹積もりなのだろうか。その為には、弱体化しているとはいえ、リベラリズムの重鎮を擁する民進党を破壊しておく必要があると考えたのかも知れない。当初は丸呑みするような素振りを見せておいて、後から厳格な「選別」を始めるというのは、民進党に対する陰湿な悪意を感じさせる振舞いである。

 小池氏は「保守的な自民党と闘う女性革命家」の鮮烈なイメージを纏うことによって、都知事選に勝利し、都議会さえも掌握してしまったが、その政治的な思想信条は、必ずしも安倍政権との間に非妥協的な対立を作り出す性質のものではない。彼女が自民党と喧嘩を始めた最大の理由は、思想的な対立であるというよりも、自身の栄達ではないか。自民党に留まっていても首相に指名される見込みは極めて小さい。いっそ独立して、自ら「社長」の肩書を手に入れた方が、総理の椅子までの距離は縮まると計算したのかも知れない。そうだとしたら、驚くべき策士ということになる。