サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(Various Changes Increasing in Our Lives)

*引き続き、洋書の繙読を続けている。先日「ハリー・ポッター」シリーズの第四巻に当たるHARRY POTTER and the Goblet of Fireを、幕張新都心イオンモールにある蔦屋書店で買い求めた。眩暈を覚えるような分厚さである。本文だけで600頁以上、外観は完全に国語辞典のボリュームで、活字のサイズが明らかに従来より縮んでいる。本来ならばiPadを駆使して電子書籍で読む予定だったのが、生憎肝腎のiPadが予約して一箇月以上経つのに未だ入荷しないので、止むを得ず紙で購入することに決した次第である。
 仮に日本語であっても600頁の分量を、生活の隙間に転がっている切れ端のような時間を凝集して読み通すのは容易な営為ではない。況してや緻密なアルファベットの隊列が延々と連なっているのでは、読了までに相当な時間と労力が要求されることは歴然としている。けれども、見方を換えれば、この分量をきちんと総て読破した暁には必ずや、私の英語力は着実な向上を成し遂げているだろうと推測される。辞書一冊分の英語を読み漁れば、否が応でも海馬の奥底には降り頻る無数のマリンスノーのように、単語や文法に関する知識の断片が降り積もって、脆弱ながら優美な珊瑚礁を形作るに違いないと性急にも期待している。現在の私は、語学の基礎である語彙や文法的知識をじっくりと練り固め、強靭な足腰を作り上げる段階に置かれている。劇的な成果を日々発見し実感することが出来ないからと言って、地道な鍛錬を疎かにする訳にはいかない。一年後の収穫に淡い希望を寄せるくらいの温度が、心構えとしては相応しい。一瀉千里の速度に憧れて己の鈍間な両足に苛立つくらいなら、蝸牛の真似に耽る方が余程精神の健康に宜しい。

*残り一週間ほどで娘の四歳児としての一年間が終幕を迎える。五歳になり、春から年長児となり、そろそろランドセルの仕度も考えねばならない季節が訪れる。日々接していると累積する微細な変化に気付き難いが、昔の写真と比べて眺めれば、明らかに顔つきが利発になり、言葉遣いも随分と大人びてきた。話す内容にきちんと理窟が通うようになり、想像や仮定の話も出来るようになった。記憶力も発達してきた。その分、親の指示や命令に黙って従う素直さは影を潜め、日夜国会議員のように自己主張が劇しくなっている。それが成長というもので、親の立場としては度々辟易させられるが、辛抱強く接する以外に途もない。時間や曜日、日附の感覚も鮮明になっている。要するに知的成長とは、眼に見えず形を持たない事柄を想像して理解し得るということ、抽象化の能力を獲得するということと同義なのだろう。言葉は正に抽象化の典型的な象徴であり、感覚的な事物と言葉を紐付けて理解する段階を過ぎれば、今度は言葉の側から事物を想像的に構成する段階へ進む。文字を読んで内容を理解するのは、そうした手続きの代表的な事例である。大いに言葉の力を鍛えて、磨き抜いてもらいたいと思う。その傍らで私は、異国の文字と言葉に塗れて右往左往している。

*仕事は徐々に忙しさを取り戻し始めた。形骸化した緊急事態宣言は最早、人波を抑え込む高圧的な権能を失っていると看做して差し支えない。私の勤め先である東京駅の構内も人出の明瞭な増加に晒されている。ICOCAで決済したりエスパルのポイントカードを提示したりする顧客の姿を頻繁に見掛ける。これらの現象は、人々の都道府県を跨いだ移動が旺盛になりつつあることの端的な徴候である。旅行や出張に対する人々の根深い意欲を肌身に感じる。とはいえ、感染第四波の襲来は早晩避け難い成り行きであろうから、これは束の間の小康状態に過ぎないのだろう。ワクチンの接種が感染者数の劇的な減殺に結び付かない限り、好況と不況との目紛しい循環は何時まで経っても安定した平坦な軌跡を描かないに違いない。
 私は商売柄、テレワークとは無縁の日常を送っているが、世間のテレワーク従事者の方々は、日々をどんな気分で過ごしておられるのだろうかと思う。極めて快適で二度と通勤電車には乗りたくないと感じているのか、それとも職住一体の閉塞的な生活に窒息の予感を覚えているのか。無論、不毛な通勤が撲滅されるべきなのは好ましい変化であるが、家庭生活と職場生活の境界線が限りなく曖昧になる生活というのも案外息苦しいものではないかと個人的には推測する。少なくとも、家庭の内部に職場の論理が侵入する頻度は増しているのではないか。テレワークでは労務管理が難しいと、管理者の立場においては従業員の怠業を警戒する意見も当初は根強かったが、実際には、眼に見えぬ緊張感を昂らせて鬱屈している人も多いのではないかと思う。家族や夫婦の距離が近くなり過ぎて関係の破局に至る人も実在すると伝え聞く。殆どの人間は、家庭における顔と職場における顔を使い分けているだろうし、それによって鬱屈や閉塞感を緩和する習慣を身に着けているだろう。それが悉く家庭という根拠地に集約されるのは、果たして幸福なことなのだろうか。
 尤も、歴史を顧みれば、職住一体という生活は別段珍しいものではない。少なくとも農業に従事する人々は、土地に縛られるがゆえに、職住一体の生活を基本的な様式として当たり前に受け容れていたのではないだろうか。通勤という文化が生まれ、一般化した背景には、都市化の進行、つまり都市部への人口や資源の集中という現象が深く関与しているものと思われる。それによって生じた「過密」という状態が、感染症に対して極めて脆弱であるという事実を、我々はコロナウイルスの猛威から教わった。その意味では、地方への回帰や分権という潮流が勢いを増すのは自然な帰結である。都市化は、国土の限定された部分を集中的に使い倒して消耗させ、それ以外の広漠たる領域を無為に放置するという不均衡な統治体制を要求する。地方への人口分散が、国土の有効利用を促すと共に、人々の生活環境を向上させるのであれば、コロナが齎した災禍は革命の狼煙となり得るだろう。
 とはいえ、都市の衰退は、国家全体の文化や経済の水準に対して、如何なる影響を及ぼすのかという課題も併せて検討されるべきだろう。人口や資源の集中によって齎される爆発的な変化や尖鋭な革命、要するに創造性の発露が有り得るのではないか、それは平穏無事な地方の風景からは生み出されないものではないのか、という疑念が、私の脳裡の片隅を、明確な論拠を欠いたまま領している。確かに通信技術の発達は、地理的条件に制約されないコミュニケーションの成立を劇的に促進しているが、生身の人間が実際に犇めき合って生活している空間の熱量を、それらの技術が凌駕し得るのか、未だ確証は得られていない。そして「都心」という概念の衰退が、良くも悪くも「分断」の温床となり得る懸念も完全には払拭し得ない。相互に混じり合わない世界、それは頗る快適な環境かも知れないが、余りにも快適な生活は、人間の心身を退化させる危険を孕んでいる。異種交配は革新の唯一の淵源ではないのだろうか。