サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(Everyone can be young and beautiful, at least once a lifetime, but aging properly is too difficult to most of us)

*「時分の花」という言葉がある。能楽の大成者である世阿弥の遺した古典『風姿花伝』に登場する用語で、その年齢に固有の魅力、一過性の魅力を指す。
 私は今三十五歳で、人生百年時代と言われる昨今の風潮を鑑みれば充分に青臭い若造の部類に属する年代であろうと思われるが、自らの加齢に加え、職場で十代や二十代の社員、従業員と接する機会が多い所為か、若さというものの絶対的な価値、或いはその稀少な価値に就いて想いを巡らすことが増えている。或いは五歳の娘を見ていても、その漲る活力、疲れを知らぬ幅広い好奇心、片時も大人しくしていない筋金入りの能動性に眩暈のような感覚を懐くこともある。若く、無限の未来を備え、心身共に無尽蔵の活力と精気に満ち濫れている彼らの姿には、年齢を重ねた人間が永遠に喪失した固有の価値、有無を言わさぬ絶対的な魅力、つまり「時分の花」が明瞭に備わっている。そして多くの若者は、自らの若さの貴重な、不可逆的な魅力の真価を自覚的に取り扱っていない。我が身を顧みても、若い間は、自分の若さに気付いていない。だから、若さという特権を徒らに空費し、刻々と流れ去る時間の非情な圧力に拉がれて、気付けば空虚な馬齢を重ねるという仕儀に相成る訳だ。
 若い間は、若さは無限に存在するかのように茫漠と広がり、四囲に瀰漫し、殊更に珍重する気持ちにもならない。心身の若さゆえに、多少の蹉跌も疲弊も早晩恢復してしまうので、無軌道な行為、無思慮な選択が相対的に増加する。それが若さというものだと、結論付けるのは容易いが、世の中には賢明な若者というのがいて、「時分の花」の得難い価値を弁えるがゆえに、それを存分に活用して堅実な計画を構築し、着々と人生の段階を前に進めていく人もいる。彼らは時間が有限であり、若さが有限であり、無限の成長が不可能であり、何れは衰退の局面が必ず到来するという千篇一律の真理(無味乾燥で馬鹿馬鹿しいほど退屈な普遍的真理だ)を熟知し、早い段階から備えを怠らず、適切な努力を惜しまない。そういう人間にとって、若さの喪失は悲嘆の対象とはならず、予期された事態の出現に過ぎないだろう。
 年長者は若者に向かって、その心身の若さが一過性のものであることを好んで助言したがるが、その忠告の動機の半分が嫉妬や僻みであることは事実だとしても、もう半分は切実な共感或いは同情に発するものであると言うべきである。有限の価値を贅沢に浪費する人間、若さを活かして若さを越える何らかの価値を構築しようと心掛けない怠惰で驕慢な若者に、彼らは他人事とは思えぬ危機感を覚える。恐らくは愚かな自画像を眺めているような心持に陥るのだろう。期間限定の途方もない価値を無益に空費しつつある人々の鈍感な神経を目の当たりにして、居た堪れない心境に陥るのだろう。無論、若者の側からすれば、訳知り顔の年長者が嬉々として垂れ流す崇高な御説教は常に鬱陶しいものである。ただ、若さが有限の価値であるという真理そのものは、肝に銘じておいて損はないように思われる。
 古代ローマの政治家であり優れた文人でもあったセネカは「生の短さについて」と題された書簡体の文章の中で、人生の有限性を執拗に強調しながら、時間を空費することが如何に容易い過ちであるかという主題を巡って熱弁を揮っている。諸々の雑務に追われて、絶えざる「忙殺」の渦中で限りある生の貴重な時間を食い潰していくことの愚昧を、彼は切実な論調で読者の眼前に描き出してみせる。実際、若さという貴重な財貨は、自然と生命の摂理に従って、万人に対して平等に下賜されている。けれども、それを有益な目的の為に善用している人間は限られる。大抵の場合、人々は馬齢を重ねた後に若き日々の自堕落と無為を後悔し、時間の不可逆的性質を慨嘆する羽目に陥る。若いというだけで様々な機会に恵まれることは多いし、若さはそれ自体で持て囃される。けれども、若さに凭れ掛かり、その粗雑な濫用に終始した人間は、若さの衰退と共に著しい社会的無価値の状態へ没落することを強いられる。そうした逃れ難い宿命を極度に恐懼し、若さの絶頂において時間を停止させ、未来永劫の「美」を維持することに恋焦がれたのが、本邦の特異な芸術家・三島由紀夫であった。彼は若さの価値を殊更に称揚し、他方、老醜の無価値を心底忌み嫌っていた。
 適切に年齢を重ねること、年齢に相応しい成長や変化、適切な「出口戦略」の策定、これは生涯に亘る幸福な生活の維持にとって最も重要な課題である。若さという自然の価値が失われた後も猶、生きることに意義を見出し、社会的な諸価値を体現する為には、若いうちから相応の鍛錬が必要である。長期的な視野に立脚し、避け難い宿命を直視し、適切な対策を講じて迅速に実行へ移すこと、若いうちから、若さに固有の価値への依存を危険視すること、同時に若さの価値や魅力を存分に活用し、有益な成果に結び付けること、こうした綜合的な戦略の立案と実行は、我々の幸福な生涯の礎であり要である。若さは或る程度、自動的な成長を万人に齎す。けれども加齢は、そのような時間の恩恵の方向を反転させ、成長の代わりに慢性的な衰弱を人々に強制する。生得的な上昇気流に甘んじて努力や工夫を怠った人間は、気流が途絶えた後に為す術を持たず、慌てふためいて急速な顚落に呑み込まれる。老害と罵られ、退場を命じられる。無論、心身の衰弱は宿命であるから避け難い。問題は、衰弱の進行を緩和する方法の案出である。年齢を重ねても猶、知識も教養も能力も財産もなく、人格も磨かれていないという無惨な有様では、人生百年時代の果てしない晩節を適切な仕方で生き延びることは難しい。本当にただ時間が経過したに過ぎないのであれば、それは生きたというよりも、単に存在したというだけに過ぎない。何も生み出さず、何も貢献せず、ただ一個の動物として食事と排泄と睡眠と繁殖に明け暮れただけ、という結論に到達しかねない。無論、それ以上の価値の実現を望むのは烏滸がましい、人間も所詮は単なる動物に過ぎないという見解も有り得るだろう。だが、そのニヒリスティックなペシミズムに生産的な意義が備わっていると言えるだろうか。少なくとも、そうした諦観が人間の強力な幸福を樹立する貴重な支援の名に値するだろうか。多くの賢者は、人間に固有の価値を探し求めるところから、倫理学の研究を開始した。人間に固有の幸福を得ることが目的であるならば、人間と動物との質的差異を前提とするのは当然の手続きである。そして我々は、目的に応じて自己を統御する理智の権能を多かれ少なかれ宿している。理智は、来るべき世界の姿を事前に想像し、過ぎ去った経験から無数の教訓を抽出するという長期的な視野に基づいた活動を展開する。動物は己の年齢を自覚しない。しかし我々人間は、年齢という記号的な指標を参照して、己の旅程を、己の現在地を推定することが出来る。それならば、やはり自己の人生に固有の地図を描いて、今後の道程を計画するくらいの準備は、怠るべきではないのではないか。現在は常に未来と連動している。今日の私が、十年後の私を形作る。十年後に焦る必要の生じない今日を、私は出来る限り自分の手で着実に形作っていきたい。結果として望ましい未来が到来しなかったとしても、それは努力の無価値や放縦の優越を意味するものではないと信じて。