サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「私」を解体する力としての「恋愛」

 恋愛というのは必ずしも自発的な意志によって制御されるものではなく、往々にして突然、意識の枠組みを揺さ振るような形で、知らぬ間に押し寄せる感情の形態である。無論、それが所謂「恋人」同士の関係性として立ち上がる為には、理性と意志の力に多くを負わねばならないが、理性によって制御されるようになった後も、その根本に不可解な感情の濁流が渦巻くことには変わりがない。それは人間の感情の動きであるから、確かに「私」の内部で巻き起こっている事態には違いないのだが、その感情の動揺は決して「私」の意図的で人工的な制御によるものではない。他人から見れば、個人の恋情は悉く恣意的な感情の運動であるが、当事者にとっては少しも恣意的ではなく、寧ろ抗い難い強烈な支配力を以て押し寄せる、殆ど「運命」のような情熱的暴動である。恋愛は、相手を運命的な存在と思い込むことによって深まるが、そのような信仰が傍目には明瞭な謬見であり誤解であるとしても、本人の眼には、それは宿命的な必然性の所産であるように感じられるものである。

 言ってしまえば、恋愛は娯楽である。恋愛をしなくとも、一個の人間が生い立ちから末期までの数十年を無事に過ごすことは充分に可能である。つまり、それは誰にとっても必要不可欠の経験という訳ではない。だが、恋愛が娯楽に過ぎないということは、恋愛が恣意的な選択の所産に過ぎないということを意味しない。複数の娯楽の中から、任意に恋愛を選べばいいというものではない。それは向こう側から、つまり見知らぬ世界の彼方から、俄かに襲来する不透明な感情である。場合によっては、それは「私」の自己同一性を根底から揺さ振り、破壊しかねない暴力的な現象である。痴情の縺れが殺人に発展することは然して奇異な事件ではない。条件が揃ってしまえば、恋心はいとも容易く尊い人命を決定的な仕方で毀損してしまうのである。

 或る意味では、恋愛は人生の障害物である。それは或る健全な道徳的観念に従って、己の人生を理性的に統御するような成熟した生き方を粉微塵に破壊する麻薬的な効能を発揮してしまう。充分に準備され、意図的に計画された生涯を無惨に崩壊させる恋愛の邪悪な側面に、苦しめられる人間は少なくない。色恋沙汰に血道を上げて、築き上げた人生の威信や財産を棒に振る人間は後を絶たない。その点では、恋愛には迂闊に足を踏み入れない方が賢明であるし、恋愛に振り回されるくらいならば、いっそ誰のことも愛さずに済ました方が、人生の損害は大幅に減殺されるであろう。

 だが、そのような冷血漢に自らを擬することは、誰にとっても容易な所業であるとは言い難い。どれほど冷徹な人格を自負していても、恋情は突如として生きることの基盤を突き崩すように出現し、荒々しい膂力で人の心を拉致してしまうものである。無論、そのような感情に抗い、理性を保ち、賢明な判断を貫徹することが、人間としての尊厳に関わる重要な事項であることは論を俟たない。但し、誰にも心を動かされずに生きることが、何か優れた才能であるかのように言挙げするのは、極めて偏狭で一面的な思想の形態である。恋に落ちることが自堕落な愚行に過ぎないならば、誰にも心を寄せずに生きることも偏屈な愚行に過ぎない。良くも悪くも、恋愛は人間に対して、己の内側に蟠踞する様々な心理的屈折の実態を覗き込ませる。或る意味では、恋に落ちるということは人間的な修業であり、単なる娯楽という扱いでは済ますことの出来ない、呪われた部分を豊富に含んでいる。どんなに自閉的な幻想であっても、恋愛には必ず「他者性の介入」という重要な課題が付き纏う。束の間の「融合」の感覚は直ぐに色褪せてしまい、甘い睦言を交わした時間はやがて冷え切った係争の時間へ様変わりしてしまう。それは一見すると不幸な経験だが、そのような「冷却」の過程を含まないならば、恋愛は自慰に過ぎない。自慰を破壊するものとして恋愛は存在し、それは否が応でも従前の自己同一性の経歴を覆してしまう。そこに恋愛という営為の最大の尊厳が存在しているのだ。それは「私が私であること」の素朴な自明性を叩き潰し、今まで知らなかった己の暗部を白日の下に晒す。場合によっては、恋愛は「醜悪な自画像との対面」そのものである。他者との果てしない情念的応酬の過程で、自分が如何に醜悪な人間であるかを痛感するとき、恋愛は単なる「共同的自慰」以上の何かへと昇華されるのだ。