サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

恋愛の非対称性と「庇護」の欲望

 一般に男女の関係は対等なものであるのが理想的な状態であると考えられ、両者の結合の最も象徴的な形態である「婚姻」においても、両者の対等な合意は、その成立の不可避の要件として日本国憲法に規定されています。

 事実、婚姻関係においては、両者の対等な関係が不可欠であり、そうでなければ家庭を健全に運営していくことは困難となります。そこには相互的な崇敬があり、開放的な議論があり、主体的な決定があります。けれども、所謂「恋愛」においては、両者の対等という条件は必ずしも不可欠ではないように思われるのです。

 婚姻と恋愛とを弁別する議論は古来、綿々と受け継がれてきた古典的な図式です。自由な恋愛という現代的な観念が成立する以前は、個人の主体的な意志に基づかない正統な婚姻と、社会の道徳的規範に抵触する「不義密通」としての恋愛という二元論的な構図が、日本の社会においては一般的でした。この異質な両者を緊密に接合する近代のイデオロギーは、必ずしも人類の生得的な欲望に合致するものであるとは断言し難いものなのです。

 婚姻においては、両性は自立した個人であることを求められます。相互扶助の原理が活発に機能しなければ、家庭という最も小さくて基礎的な社会的単位を、長年に亘って堅持することは困難であるからです。無論、夫婦には様々な形態が有り得ます。けれども、理念としての婚姻は、両性の自主独立を必須の要件として銘々に請求しているのです。

 単なる恋愛においても、両性が相互に依存せず、銘々が自立した生活を送っていることを重要な心得と看做す論調は巷間に氾濫しています。但し、こうした論調の背景には、建設的な恋愛は自ずと結婚という果実に結び付くべきであり、結婚に到達しない恋愛は感傷的な想い出の一頁に過ぎないと考える暗黙の前提が介在しているように思われます。事実、恋愛をそれ自体として眺めるならば、そこには動物的な愛慾の共有以外の如何なる要素も見出し得ません。どんなに小綺麗に飾られていたとしても、恋愛の本質が動物的な親密さへの要求に他ならないことは明白です。そして、そのような世界においては、両性のそれぞれの自立や、相互的な依存の否定といった要請は、聊かも求められていないように見えるのです。

 恋愛の感情は、親子の愛情の転写された形態であるように思われます。言い換えれば、恋愛という関係は常に非対称性を持ち、それゆえに或る独特な情熱を湧出させるものであると考えられるのです。親が子に対して懐く愛情は一般に特権的なものです。その奇態な情熱の根源に、子供の存在を自己の部分や延長として定義する無意識的な解釈が関わっていると考えるのは、それほど突飛な着想ではないでしょう。子供の親が誰であるのか、ということが重要な意味を帯びるのは、つまり子供の帰属関係が重要な問題として定義されるのは、親子の関係が常に非対称的であり、支配と依存とが鬩ぎ合う独自の関係性が顕現する領域であるからだと私は思います。

 親の子に対する特権的愛情は、支配する者の愛情であり、子が親に対して懐く愛情は、依存する者の愛情です。こうした力関係の不均衡が、親子の生物学的な関係に由来するものであることは明白です。支配する者は、時に支配の対象を厳しく懲戒したり、不当に攻撃したりする危険を孕んだ存在ですが、少なくとも支配する者が支配の対象に愛情を向けるとき、そこには一般的な論理を超越した盲目的な情熱が横溢します。

 恋愛においても、こうした図式は転写された形で適用し得るものです。両性の何れが優位に立つかということは状況に応じて変動するでしょうが、少なくとも劇しい情熱に駆られた恋愛において、両者が対等な議論に基づいて恋愛の欲望を燃え立たせていると考えるのは不自然な想定です。恋愛における主体は、その劇しい情熱の渦中にあって、相手の脆弱で依存的な性質に向かって発情します。相手を庇護し、慈しみたいという欲望は、親子の間でも日常的に散見する心理的現象であり、それは親子の間で非対称的な関係が成立していることによって一層強固に喚起されるものです。この非対称的な関係が徐々に対等な関係へ変化していくのに伴って、庇護の欲望は徐々に衰亡していきます。少なくともその感情的な強度や熱量は弱まっていきます。子供も成人すれば、幼い頃のような親子の情熱的癒着は解消されるのが一般的な帰結です。親に庇護されることが、子供にとっては自由な主体性の発揮を妨害する要因として受け止められるようになるからです。

 親子の関係は、庇護から始まって庇護の解消に向かいます。それが人間の「成長」及び「自立」の過程であるからです。同様に、恋愛の関係においても、庇護が解消されることによって、恋愛は婚姻の次元に移行を遂げます。庇護の解消は劇しい感情的癒着の喪失を意味しますが、それは必ずしも関係性の解消を意味しません。自立した個人による対等な相互的扶助の関係、それが成熟した人間の選択すべき社会的関係の形式なのであり、庇護を媒介とした結びつきは広義の「弱者」に固有の実存的条件なのです。「庇護」は濃密な情緒を伴いますが、一方の「自立」は「庇護」とは対蹠的に、開放的な理性の働きによって支えられています。「庇護」の欲望は、相手に対して「弱者」であることを要求します。相手が弱者でなければ、情熱的な「庇護」の欲望を満足させることは出来ないからです。子離れを遂げられない親は、自らの裡に湧き起こる「庇護」の欲望を満足させることに執着する余り、自分の子供が既に弱者の段階を脱却したのだという現実の受容を拒否します。従順な子供は「庇護」の欲望を満たしますが、従順であることは主体性の未熟と同義語であり、そのような段階に子供の実存を固着させておくことは、明らかに教育の失敗を意味しています。恋愛においても「庇護」の情熱の永続化は、関係性の頽廃を意味します。長く連れ添った夫婦において、関係性の初期に見出されていたような劇しい情熱や欲望が消失するのは、退嬰ではなく成熟の証です。「庇護」から「自立」への移行、或いは関係の「非対称性」から「対称性」への移行は、人間的成長の根幹を成す最も重要な基礎的過程であると言えるのです。