夭折の幻想 三島由紀夫「春の雪」 3
恋愛の情熱は、他者との完全な合一に向けて捧げられた悲劇的な欲望の形態である。どれほど深々と親密な肉体的接触に耽溺しようとも、自己が自己であり、他者が他者であるという素朴な原理的事実が全面的に刷新される見通しは決して立たない。だからこそ、恋愛の情熱は無際限な膨張を演じることが可能になる。若しもそれが充足の可能な欲望であるならば、満たされることによって情熱は否が応でも減衰するだろう。そもそも、情熱というもの自体が、充足を禁じられることによって一層劇しく燃え盛る心理的な現象であることは周知の事実である。それが「恋愛」という特殊な営為と相互に結合したとき、如何なる事態が現出するのか、その構造的な推移を克明に描き出したのが、この「春の雪」という典麗な小説の眼目であると言えるのではないだろうか。
水が馴染んだ水路へ戻るように、又しても彼の心は、苦しみを愛しはじめていた。彼のはなはだわがままで、同時に厳格な夢想癖は、逢いたくても逢えないという事情のないことにむしろ苛立ち、蓼科や飯沼のお節介な手引を憎んだ。かれらの働らきは、清顕の感情の純粋さの敵であった。こんな身を嚙む苦痛と想像力の苦悩を、清顕はすべて自分の純潔から紡ぎ出すほかはないことに気づいて、矜りを傷つけられた。恋の苦悩は多彩な織物であるべきだったが、彼の小さな家内工場には、一色の純白の糸しかなかったのだ。(『春の雪』新潮文庫 pp.140-141)
換言すれば、この「春の雪」という作品を通じて精細に分析されるのは「情熱」という心理的な力学の構造であろうかと推察される。極端な言い方をすれば、清顕は敢えて禁断の関係に溺れることで「情熱」の炎上という退屈な日常からの脱却の方途を獲得しようと試みたのではないかと考えられるのだ。その為の手段が偶然にも「恋愛」だったというだけで、少なくとも聡子との関係が如何なる障碍も伴わぬ円滑で穏便な紐帯であったならば、清顕の情熱は決して燃え立たず、従って淪落の誹謗さえ辞さぬ悲壮な決意の生じる余地もなかった筈である。彼が恋愛の情熱に挺身する覚悟を固めたのは、聡子に対する誠実で真摯な愛情の内的な要請に基づく決断ではない。彼は退屈な日常を覆し、ニヒリスティックな実存に或る「決定的なもの」(p.25)を導入する為に、聡子との親密で特別な関係を悪用したに過ぎないのである。だからこそ「逢いたくても逢えないという事情のないことにむしろ苛立ち」という倒錯的な感情が繁茂するのだ。
何が清顕に歓喜をもたらしたかと云えば、それは不可能という観念だった。絶対の不可能。聡子と自分との間の糸は、琴の糸が鋭い刃物で断たれたように、この勅許というきらめく刃で、断弦の迸る叫びと共に切られてしまった。彼が少年時代から久しい間、優柔不断のくりかえしのうちにひそかに夢み、ひそかに待ち望んでいた事態はこれだったのだ。御裾持のときに仰ぎ見た、白い根雪のような妃殿下のおん項の、屹立し拒否している無類のお美しさは、彼のこのような夢に源し、彼のこのような望みの成就を、預言していたのにちがいない。絶対の不可能。これこそ清顕自身が、その屈折をきわめた感情にひたすら忠実であることによって、自ら招き寄せた事態だった。
しかし、この歓喜は何事なのだ。彼はこの歓びの、暗い、危険な、おそろしい姿から目を離すことができなかった。
自分にとってただ一つ真実だと思われるもの、方向もなければ帰結もない「感情」のためだけに生きること、……そのような生き方が、ついに彼をこの歓喜の暗い渦巻く淵の前へ導いたのであれば、あとは淵へ身を投げることしか残されていない筈だ。(『春の雪』新潮文庫 p.217)
「不可能という観念」に発源する暗く危険な「歓喜」が、あらゆる種類の「情熱」の雛型であることは明瞭である。清顕の聡子に対する身勝手な情熱が最高潮に達するのは、二人の関係が「勅許」という絶対的な禁忌によって断ち切られた瞬間においてである。その瞬間から、聡子の存在は単なる美しい女であることを逃れて、絶対的な「不可能」の象徴に化身し、それが清顕の劇しい情熱を喚起し、最大限に煽動するのだ。そうした心理的現象は「方向もなければ帰結もない」単調な生活の持続を免かれる為の最善の方途として、清顕の頭上に邪悪な恩寵のように臨在する。初めに誠実で真摯な愛情が予め存在し、それが外在的な権力や不幸によって妨礙され、その幸福な結実と成就を阻まれるのではない。少なくとも清顕の側においては、愛情は不可能な禁忌の事前に普遍的な仕方で沸騰しているものではなく、寧ろ禁忌と抑圧の現前を媒介として堅固な輪郭を獲得したのである。禁じられ、隔てられるということ、つまり両者の性愛的な関係が或る絶対的な禁圧の下に縛りつけられ、峻厳な制約を蒙ること、それが両者の性愛的な関係の清冽な出発点としての役目を担っているのだ。
『僕は聡子に恋している』
いかなる見地からしても寸分も疑わしいところのないこんな感情を、彼が持ったのは生れてはじめてだった。
『優雅というものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を』と彼は考えた。この観念がはじめて彼に、久しい間堰き止められていた真の肉感を教えた。思えば彼の、ただたゆたうばかりの肉感は、こんな強い観念の支柱をひそかに求めつづけていたのにちがいない。彼が本当に自分にふさわしい役割を見つけ出すには、何と手間がかかったことだろう。
『今こそ僕は聡子に恋している』
この感情の正しさと確実さを証明するには、ただそれが絶対不可能なものになったというだけで十分だった。(『春の雪』新潮文庫 pp.218-219)
清顕の人格の内部においては、官能的な肉慾の衝動は必ず「禁忌」或いは「罪悪」という血腥い観念による補助を要求している。禁圧され、制約されることによって、彼の官能的な欲望の情熱的な強度は無限の高揚を演じることが出来る。それは本質的な意味で、清顕の懐いている欲望の根源的な対象が「絶対不可能なもの」の裡に埋め込まれているという倒錯的な事実を傍証している。不可能であるからこそ、彼の粗野な情熱は万難を排して憧憬の対象へ到達しようと燃え盛るのであり、それが容易に与えられ得るものであるならば、彼の欲望は断じて喚起されないだろう。この世話の焼ける心理的倒錯は、清顕という若者の人格の精神的中核を構成している。その背景に、彼の優雅で富貴な出自の影響を瞥見することは強ち牽強付会とも言い切れまい。あらゆる種類の欲望が無際限に許容され、充足されるような環境に生まれ育った人間に固有の虚無的な頽廃が、複雑で面倒な迂路を経由して「不可能なもの」に対する熾烈な衝迫を培うのではないだろうか?