サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

夭折の幻想 三島由紀夫「春の雪」 4

 引き続き、三島由紀夫の『春の雪』(新潮文庫)に就いて書く。

 松枝清顕という極めて複雑で繊細な情緒を持った青年(或いは少年)の精神的秩序の中枢には、如何なる手段を駆使しても到達し難い「不可能なもの」に対する強烈な欲望が息衝いている。それが彼自身の富貴な出自に由来している可能性に就いては、長々と論じても詮方ない話なので省略する。重要なのは、彼の欲望が「不可能なもの」によってのみ強烈に喚起される特質を孕んでいるという点である。

 改めて考えてみれば「不可能なものに対する欲望」という主題は、三島の遺した夥しい数の文学作品の過半を貫く重要な伏流水の役割を担っているように思われる。例えば彼の代表作である「金閣寺」の主題は、正に「金閣」という到達の不可能な対象への飽くなき憧憬と、その反転した形態としての濃密な憎悪が齎した惨劇を描いている。そして、不可能なものへの到達が「滅亡」の渦中においてのみ可能であると信じられるという心理的特徴も、三島的な精神の構造を形成する重要な主調音として機能している。不可能なものに対する欲望は常に「彼岸」への欲望に、つまり「死」への欲望に置換され、それが結果として無際限に持続する退屈な「生」への虚無的な敵愾心を養っている。尤も、こうした「死への欲望」と「生への嫌悪」との一対は、何れか一方を絶対的な起源として定めることの難しい、循環小数のような相互的関係を備えている。

 三島の生み出した文学的果実の殆どが「日常生活の倦怠」と「英雄的な滅亡への憧れ」のアマルガムによって構成されていることは明瞭な事実であると私は思う。退屈な日常に倦怠を覚えるのは世上の誰でも心当たりのある陳腐で普遍的な感覚であろうが、それを「破滅」に対する極端な情熱によって埋め合わせようと試みる過激な性質は、万人に等しく授けられている類の天稟ではない。

 当事者でもないのに根拠の薄弱な揣摩臆測の言説を弄するのは下世話な話だが、恐らく三島にとっては戦時下に送った青春時代の感覚が、その生涯を呪縛する宿命的な刻印として作用したのではないかと推察される。自らの遠くない「死」が明瞭な約定として常に迫っている環境の中では、日常性に対する信頼は否が応でも衰退させられるだろう。そして、戦時下の異常な空気の裡に逼塞することを強いられながら、彼が想い描いた英雄的な「破滅」の悲劇的な美しさは、彼の有する個人的な倫理の規範と化した。恐らく、そこには頗る甘美な陶酔の魅惑が充満していたのだろうと思われる。

 私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。(坂口安吾堕落論」 註・青空文庫より転載)

 約束された「死」は、あらゆる思考の可能性を抹殺する。換言すれば人間の思考は、自らの旺盛な活動と存続の為に必ず「未来」という可能的な幻想の道標を要求するのである。従って「未来」の存在しない世界では、あらゆる人間的思考は潰滅し、純然たる感性的な審美眼だけが物事の一切を裁定する超越的な規矩の地位へ昇格する。

 坂口安吾は、そうした感性的な審美眼の君臨する世界を「虚しい美しさ」として批判的に捉え、手厳しく弾劾しているが、反対に三島由紀夫は「虚しい美しさ」に対する抑え難い愛着の情熱を扼殺することに失敗した人物のように見受けられる。彼が「不可能なもの」を選択的に希求し、禁忌と罪悪に執着する背景には、明らかに「死」に対する執拗な願望が潜在している。彼は「未来の欠如」を望み、それによって情熱が最大限に高揚する審美的で特権的な瞬間の内側に、自らの存在が永遠に幽閉されることを強く期待したのではないか。換言すれば、彼の宿痾にも似た欲望が成就される為には、必ず「死神」の媒介が不可欠だったのではないか。

「それで貴様はこれからどうするつもりだ」

 と本多は訊いた。

「どうするもこうするもないさ。僕はなかなかはじめないが、一旦はじめたら、途中でやめるような男じゃない」

 こんな答は今までの清顕からは、夢にも期待できなかった種類の答で、本多の目をみはらせるに足りた。

「それじゃ、聡子さんと結婚する気なのか」

「それはだめだ。もう勅許が下りている」

「勅許を犯しても、結婚してしまう気はないのか。たとえば二人で外国へ逃げて結婚するとか」

「……貴様にはわかっていないんだ」

 と言いさして黙った清顕の眉の間には、今日はじめて見る、むかしのあいまいな憂いがふたたび漂った。おそらくそれを見たくてはじめた故らの追究だったにもかかわらず、見れば見るで、本多の幸福感にもかすかな不安の影がさした。

 清顕が未来にのぞんでいるものは、一体何だろうと考えると、いかにも微妙な選ばれた線で精巧に組み立てられた、その工芸的なほど美しい横顔を眺めながら、本多はある戦慄を感じた。(『春の雪』新潮文庫 pp.240-241)

 「清顕が未来にのぞんでいるもの」とは即ち「未来の欠如」である。彼は勅許という絶対的な禁忌を犯しながらも、決して勅許の権威に正面から抵抗しようなどとは考えていない。それは清顕の心理において「勅許」という観念が、聡子との性愛的な関係に対する忌まわしい外在的な障碍ではなく、寧ろ聡子に対する官能的な情熱を喚起する源泉として定義されている為である。勅許という禁忌が消滅したとき、清顕の聡子に対する苛烈な愛情もまた失われるだろう。何故なら、禁忌の消滅は直ちに「未来の現前」を意味するからである。

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)