サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

夭折の幻想 三島由紀夫「春の雪」 5

 引き続き、三島由紀夫の『春の雪』(新潮文庫)に就いて書く。

「そうね。そんなことを言ってはいけないのね。私が自分のことを少しもふしだらだと思えないのに。

 どうしてでしょう。清様と私は怖ろしい罪を犯しておりますのに、罪のけがれが少しも感じられず、身が浄まるような思いがするだけ。先程も浜の松林を見ておりますと、この松林が、生きてもう二度と見ない松林、その松風の音が、生きてもう二度と聞かれない松風のような気がするのです。刹那刹那が澄み渡って、ひとつも後悔がないのでございますわ」(『春の雪』新潮文庫 p.295)

 「未来の欠如」という感覚が人間の精神に齎す影響の性質は、或る決定的な特異さを孕んでいるように思われる。人間に限らず、総ての生命体が遅かれ早かれ「死」という免かれ難い宿命の襲来に苛まれることを、誰もが理屈の上では弁えていても、それが或る生々しい感覚として骨髄にまで達している場合は稀である。平凡な生活に耽溺している限り、そのような「瀕死」の感覚を自らの裡に明瞭な形で象嵌することは不可能に等しい。明るい未来や暗い未来を自由に想像して一喜一憂するのは人間の本能的な所作であり、未だ到来しない事件の先触れを現実の様々な細部に勝手に発見して思い悩んだり歓喜したりすることは、誰にとっても自然な権利であると一般に認められている。だが、そもそも「未来」という観念自体の欠如の裡に生きるとき、人は眼前の世界に対して如何なる構造の「思想」を懐くのだろうか?

 「刹那刹那が澄み渡って、ひとつも後悔がない」という感覚は明らかに「未来の欠如」という陰鬱な宿命の強力な介入を予期した述懐である。清顕と聡子との間で繰り広げられる情熱的な性愛の営みは、そもそも二人の未来が幸福であるかどうか以前に「未来そのもの」の到来を期待し得ない条件下に置かれていることで、独特な「純化」の過程を辿っている。彼らは、二人の関係が「勅許」という巨大で強権的な「禁忌」によって「未来」という可能性の領域を奪われた紐帯の形であることを、十全に知悉している。しかも、その認識は、決して二人の恋愛に関する情熱を減衰させず、寧ろ重要な「火元」として両者の甘美な奮闘を煽動する役目を果たしている。瞬間的な現在が至高の水準まで純化される為には、通俗的な「未来」の観念は却って目障りなのだ。「未来」という観念の介在を許してしまうとき、瞬間的な現在の裡に充塡される特権的な価値の密度は、その大幅な低減を回避することが出来ない。

 或いは、このように言い換えられるだろうか。彼らが抱え込んでいる宿命的な願望の本質は「時間の廃絶」という一点に尽きているのだと。「未来」は常に「過去」と互いに手を取り合って人間の精神の領野へ出現する。記憶と想像力によって構成され、培養された我々の時間的意識は、瞬間的な現在に対する没入を禁じ、可能的な世界への限りない飛翔を促進する。そのような意識の「時間性」が、我々の実存から或る特権的な瞬間の「充実」を妨げているのだとすれば、つまり時間的な可変性の宿命が、眼前の特権的瞬間の輝かしい充実の逃れ難い衰滅を常に暗示するのだとすれば、清顕にとって「勅許」という絶対的禁忌の消滅は、聡子との関係が帯びている燦然たる特権性の致命的な失墜を意味することになるだろう。

 掛け替えのない「瞬間的現在」を、その都度「永遠」に置き換え、墓標の如く無限に屹立させること、これが三島的な美学の核心を成す重要な主題であると私は考える。三島が頻々と「日常の倦怠」に対する深刻な嫌悪を表明する理由も、この美学的な規範の下す必然的な判決であると捉えれば、それほど難解ではなくなるだろう。日常性とは即ち、無際限に持続すると想定された時間性の異称である。果てしなく反復される世界、決して終末論的な破綻を迎えることのない時間、それらは三島的な美学に根本から背反する冒瀆的な観念に他ならない。

 三島的な論理を精確に理解する為には、我々読者は「永遠」という言葉の意味に就いて事前に精確な定義を試みておかねばならない。一般的に「永遠」という観念は、無限に持続する厖大な時間の堆積を指し示すものとして解釈される傾向を有しているが、三島的な世界においては寧ろ、そのような時間の無際限な堆積こそ「永遠」の対義語として位置付けられているのである。三島にとって「永遠」とは即ち「時間の停止」を意味する崇高な理念であり、従って「永遠」を望むことは「瞬間的な現在」を無限に引き延ばすことへの不可能な欲望を暗黙裡に内包している。三島的な論理が絶えず「滅亡」への憧憬を表明する背景には、要するに「滅亡」が「時間の廃絶」と同義語であるという判断が介在しているのである。

 かれらを取り囲むもののすべて、その月の空、その海のきらめき、その砂の上を渡る風、かなたの松林のざわめき、……すべてが滅亡を約束していた。時の薄片のすぐ向う側に、巨大な「否」がひしめいていた。(『春の雪』新潮文庫 p.297)

 三島が赫奕たる「滅亡」を欲するのは、それが根源的な意味で「時間の廃絶」を招来する為である。通俗的な解釈や認識に抵抗するように、彼は「永遠」を「無限の時間」と結び付ける等式を傲然と棄却する。時間の齎す種々の不可逆的な「腐蝕」に対する根深い嫌悪が、三島的な美学の根底に横たわっている。

 彼は海の潮と、長い時の移行と、自分もやがて老いるという考えに、突然息が詰りそうになった。老年の知恵なぞは、かつて欲しいと思ったことがない。どうしたら若いうちに死ねるだろう、それもなるたけ苦しまずに。卓の上にぞんざいに脱ぎ捨てられた花やかな絹のきものが、しらぬ間に暗い床へずり落ちてしまっているような優雅な死。(『春の雪』新潮文庫 pp.147-148)

 人生において最も美しく気高く充実した「絶巓」の瞬間に「優雅な死」を遂げること、即ち「夭折」の幻像に憧れること、それは三島的な美学の志向する究極の理想である。「夭折」の審美的な機能は、無際限に持続する「時間性」への侮蔑的な復讐という効能を宿している。清顕が本多の提案する「聡子との不法な結婚」という選択肢を曖昧に拒絶するのは、性愛を理由とした惨めな流謫の生活が、彼の秘密裡に抱え込んでいる「夭折」の規範に抵触する性質を備えている為であろう。二人の関係が最も美しく気高く充実した状態で「永遠」に化身する為には、恐らく「情死」という選択肢以外に如何なる方途も存在しないのである。

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)